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「王女の男」の時代背景から  「端宗(魯山君)」の妻「定順王后」は、60年以上も冥福を祈るだけの哀しい〝未亡人〟

  ソウルの都心にその姿を甦らせた「清渓川(チョンゲチョン)」、散策というよりも、ほんの少し歩いてみたのは三度ばかりあります。
ここって後から後から、こういうものがあるとかって知って、「ヘェー、そうなんだ」と改めて思うことがよくあります。

  ここに架かる橋にもこんな話が残っているなんてことは、今回になって初めて知りました。
いや、本当は、きっと以前にも観光の記事で目にしていたのかもしれない、だけど、こういうのは決まってざっと読む程度ですから、こうして改めて興味を持って調べないと意識なんてしないものです。

  この「清渓川」に架かる橋のひとつに「永渡橋(ヨンドギョ)」という橋があるそうです。
きっと自分も実際に目にしたことがあるのかもしれませんが、「清渓川」の畔を歩く際に上に架かっている橋のひとつですから、これまでそんな橋をまったく意識したことなんてありません。
しかも、昔ながらの風情を残すような橋とかいうのなら、多少は風景のひとつとして目にもとまるのでしょうが、普通の橋のひとつでは意識しろという方が無理というものです。

  この「清渓川」に架かる橋のひとつにすぎなかった「永渡橋(ヨンドギョ)」が、悲劇の幼き国王「端宗(タンジョン)」にまつまる名前が付けられていた橋だったなんて知りませんでした。
っていうか、これまで「端宗」自身を知ろうとしたことがありませんでしたから、当然のことですけどね、こうやってドラマで興味を持たないと調べない、韓国知識を増やすもドラマ次第という困った人間です(笑)

  さてその「「永渡橋(ヨンドギョ)」、流刑になる端宗とその妻である「定順王后(チョンスンワンフ)」はここで別れたのだと言われます。
流刑になる「端宗」がこの橋を渡り、そのたもとで涙ながらに見送るしかない「定順王后」、想像するとドラマの感動シーンにもなりそうな絵です。
そして「端宗」は流刑地である寧越(ヨンウォル)でそのまま賜死しますから、永遠にこの橋をまた渡って戻ることはなかったわけです。

  そこで付いた名前が「永渡橋」 〝永久に渡る橋〟という意味なんだということです。
でもね、〝永久に渡る橋〟って自分としては納得がいかない、〝永遠に渡ったままの橋〟ではないかい(?)[わーい(嬉しい顔)]
そんなこたあどうでもいいとして、「端宗」は二度とこの橋を再び渡って「定順王后」の元へ戻ることはなかったんです。
この時に妃である「定順王后」は16歳か17歳、そして、「端宗」が賜死したのがその年の10月ですから、いわゆる〝未亡人〟になってしまったのは多分17歳ということになります。
  (注: 満年齢で書いていますので、数え年齢の記録とは異なる場合があります)
  ちなみに、この「定順王后」は生まれた年は1440年ですが月日は定かではないんです。
まだ13歳か14歳で「端宗」の嫁さんになって、17歳で未亡人です、幸せな結婚生活を何十年も(?)続けてみえるえりなーさんやガリィママさん!想像できますかぁ?

「永渡橋」
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  この後がお気の毒なんです。
  端宗が送られた寧越(ヨンウォル)の方角が見える東大門近くに草庵を築いて、侍女三人と端宗の冥福を祈りながら貧しい暮らしを始めたんだそうです。
そして朝夕と欠かさずその東にある「東望峰(ドンマンボン)~鍾路区(チョンノグ)崇仁洞(スンインドン)」に登っては、寧越の方を眺めて冥福を祈るのを忘れなかったと言われます、この場所の名前もそれにちなんでいるそうです。
そんな哀れな姿は近くの民たちの同情を誘い、その生活を助けたなどということも書かれていたりします。
それを見兼ねた朝廷が住まいを建てて援助しようとしたりしますが、定順王后は絶対にそれを拒んで、興仁門(フンインムン))近くにある東望峰(ドンマンボン)の西の下にあった「浄業院」でその後亡くなるまで過ごしたそうです。
もちろん、東望峰に登り端宗の冥福を祈るのも死ぬまで続けられたと伝えられています。

毎日冥福を祈ったという「東望峰」
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  4年にも満たない端宗との夫婦生活です、しかも10代で未亡人になり、亡くなったのが81歳か82歳です、それまでの64年余りを端宗に捧げ続けてその冥福を祈って生きていたなんて、本当に何のための人生だったんだか[もうやだ~(悲しい顔)]
なんでまたそんなに長生きしちゃったんでしょうねえ、それが余計に気の毒な気がします。

  「定順王后」が暮らしたという「浄業院」の名残りは、現在の「青龍寺(チョンリョンサ)~ 鍾路区(チョンノグ)崇仁洞(スンインドン)」の脇に、碑閣のみがあるだけのようです。
この「青龍寺」は、端宗と定順王后が最後の夜を共にした場所だとも言われています(?)し、暮らした「浄業院」自体がここだと書かれたものもあります(?)

「端宗」と「定順王后」が最後を過ごしたと言われる「青龍寺の雨花楼」
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  そしてそこにある碑閣を築いたのが英祖王、そして墓石や懸け板などの文字も英祖王が書いたものだそうです。
さすがは「トンイ」の息子です、情に厚い一面が見られますよねえ、しかも「涙無しでは書けない」などという文字もあるそうで、やっぱり暖かい人間だったのかもしれません、息子は死なせてしまいましたが…。

「浄業院碑閣」
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「英祖」の書とされるもの
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  ただ、この「定順王后」が暮らしたとされる「浄業院」は、尼寺で行き場の無い後宮たちが余生を過ごしたお寺の「正業院」と多くはなっていますが、「定順王后」の「浄業院」とその「正業院」とがごちゃ混ぜになっているようでよく分かりません。
世祖の即位三年目に、当時は廃止されていた、子供の無い後宮を集めた「正業院」というのを復活させたのは確かなようで、ただそれは昌徳宮の近くの城内にあったらしいということですから、どうやら哀れな宮廷女性が暮らしたお寺という共通点で一緒にされている感が強いみたいです。
「英祖」が築いた「浄業院」の碑閣そのものも、本来の「正業院」ではなく、定順王后が暮らしたとされる伝説的な場所に建てられたようです、ただ 自分は歴史家でもなんでもありませんので、とにかく「浄業院」と「正業院」そして「青龍寺」でこんがらがってます[ちっ(怒った顔)]

  なんにしても、10代で未亡人になり、剃髪して尼僧になり、たった4年弱というだけの夫「端宗」の冥福を祈る、それだけで64年余りを生きていた女性、端宗以上に哀れだと思います、妃候補に選ばれなかったらもっと別の人生があったはずですから。

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