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新しいブログです

新しいブログを立ち上げました。

タイトルは「今・韓・日・触(きんかんにっしょく)」です。
韓国の話題ばかりじゃなく、テレビなどを見ていて思い出したり、書いてみたい日本の観光地なども幅広くしてみました。
  ということで、「今、韓国や日本に触れる」という意味を込めてこんなタイトルにしてみました。

  この「自由気ままな韓国一人旅」の続編にもなっていますので、どうかよろしくお願いします_(._.)_

   http://hanlove-8.blog.so-net.ne.jp/

   最初の記事は、日本と韓国の話題をふたつ同時にアップしてみました。

「善徳女王」の父「真平王」も美室(ミシル)の愛人???  【当ブログの最終回】

  ドラマ「善徳女王」の元となったのが『花郎世記』という記録だというのですが、この記録は、元々は日本の宮内庁書陵部に秘蔵されていたのを、朴昌和と言う人物が密かに書き写していたとされる筆写本が、1989年に見つかったものなんだそうです。
ところが偽物だと主張したりする人も多いらしく、その真偽は定かでないらしい。
だったら日本の宮内庁にあるのか? あったら確認すれば済むことなのに…と思うのだが、その辺はどうなってんの(?)っておいらのような凡人は思ったりする。

  それはともかくとして、「三国史記」や「三国遺事」、そしてこの「花郎世記」
前のページで書いているように、真平(チンピョン)王の三女とされる善花姫は「三国遺事」にしか登場してこない人物なのだが、それとは逆に「花郎世記」にしか登場しない人物がいる。
それがドラマ「善徳女王」の人気者「美室(ミシル)」だ。

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  「花郎世記」によれば、あのドラマ「善徳女王」に描かれているように魔性の女性で、花郎を掌握していた権力者となっている、そんな歴史を左右する人物が、他の歴史書には登場してこないというのは、善花姫以上にミステリアスな話しだと言える。
  自分のような凡人が、歴史家の間でも論争になっているものに割り込むような知識はないので、そんなことは置いといて、「花郎世記」に描かれているミシルがとっても興味深い、とは言っても歴史的な高尚な興味ではなく、凡人は凡人らしく(?)スキャンダラスな面がとっても面白い。

  ドラマで描かれていたように、才知と美貌の持ち主だという女性ミシル、生まれは540年代だと推測されている、これは弟のミセンが550年生まれとなっていることから推測されているらしい。
そして没年もよくわかっていないらしく、こちらも推測するよりなく、「花郎世記」に最後に登場している612年以降の数年らしいということだ。

  このミシルのほぼ7~80年の生涯での男性遍歴が凄い!(笑)
おいらにはこっちの方が凄く興味がある。
若かりし頃から熟女になるまでの間に記録されている相手が7人、その内訳は夫が一人に愛人が六人となっている。
  まず夫は「世宗公(セジョンゴン)」という人物で、六代目の風月主(プンウォルジュ)、早い話が花郎のリーダーです、ドラマを見ていた人はよくご存知と思います。

  そして愛人として名を連ねるのが、お馴染みの「斯多含公(サダハムゴン)、こちらは五代目の風月主です。
  次が、薛原郞(ソルファラン)、この人は七代目の風月主です。
ここまでは花郎の風月ですから、花郎のリーダーの五代目から七代目までを掌握してたってことで、ドラマの花郎を我が物にしていたってことが納得できますよねぇ。

   これからがもっと凄いんです。
 24代国王の「真興(チヌン)王」、ドラマのイ・スンジェお爺ちゃんですね。
 それから、「铜轮=銅輪太子(ドンリュンテジャ)」、この人は真興王の息子であり、真平王の父親なんだそうです。
 お次が、25代国王の「眞智(チンジ)王」、これがドラマでイム・ホが演じていたミシルに廃位された王様です。
 そしてなんと、ドラマではマヤ王妃ひとすじだった「眞平(チンピョン)王」、善徳女王の父親ですよ、この人もミシルさんと情を通じた仲だったんです、と、「花郎世記」ではなっとりますようで[わーい(嬉しい顔)]

   花郎のリーダーが三人、そして24代から26代の国王の皆様が、このミシルさんの魔性に呑み込まれたっていうか、毒牙にかかっていたというか、魅力の虜になっていたらしいってことで、これが本当ならドラマのように、新羅がミシルの手中にあったって不思議ではないですよねえ[ふらふら]と言うよか、そんなにも男を虜にする女性に一度お目にかかってみたいものだ[ハートたち(複数ハート)]


  話は少し変わりますが、ミシルの存在が書かれていた最後が612年で、善徳女王が即位したのが632年ですから、善徳女王にミシルが反乱を起こすなんてことはちょっとばかり考えられないわけです。
  実は、ドラマの中でミシルが起こしたとなっていた反乱は、父王である「眞平王」の時代の631年のこと(年代的にはドラマに合致してます)。
その反乱を起こしたのが、ドラマの中で、〝ミシルが命〟という感じで動いていたこの二人、
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「柒宿(チルスク)」と「石品(ソクプム)」だったらしいですよ、でもこの反乱は失敗に終わって、チルスクはすぐに処刑され、ソクプムは一旦は百済に逃げ延びたものの、妻子を迎えにきこりに変装して新羅に戻ったところを捕まってしまい、やはり処刑されたんだそうです。
ドラマのように壮絶な最期の死闘は実際にはなかったようです。

  それにしても、「花郎世記」に描かれたミシルと、実際に歴史に残る反乱なんかをうまく繋げて、しかも後のピダムの乱の主役もミシルの息子に仕立てたり、本当にうまくドラマにしていたものです、感心してしまいます。


  ということで、この「自由気ままな韓国一人旅」というタイトルのブログは終了させていただくことにしました。
ただ、ファイルの容量の制限が近いということと、最近はドラマの話題の方が中心になってきてますから、タイトルなどを一新させて、韓国の話題+αでの出直しを考えています。

  この「自由気ままな韓国一人旅」を読んでいただいた皆さん、ありがとうございました。
しばらく休んで新しいタイトルのブログでまたお会いしましょう![手(パー)]

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謎が多すぎて面白い! 「善徳女王」「天明王女」「善花姫」の三姉妹(?)

  月曜日の夕方の「善徳女王」はもうすぐ最終回を迎えます、そしてまた再び、毎 月~木曜の夕方に「薯童謠(ソドンヨ)」が始まったばかり。

  大昔に書きましたが、この「薯童謠(ソドンヨ)」の善花(ソンファ)姫は、善徳女王の末の妹と一部の記録ではされている人物です。
でもこの三姉妹の記録は実に様々で、実に面白い、その記録がある書物ごとで、こんなにも記録が異なる姉妹の存在は実に不思議だ。

  まず、父王の真平王の後をついだ「善徳女王」については、" 三国史記 "では真平王の長女として名前が記されているものの、" 花郎世記 "という記録では次女となっている。
ドラマ「善徳女王」は、全てがどうやらこの" 花郎世記 "をベースに、ドラマの脚本が書かれ展開していたようだ。
  そして、ドラマ「善徳女王」では双子の姉とされていた「天明王女」は、その真逆の記述がなされている。
" 三国史記 "では次女、" 花郎世記 "では長女となっている。

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  まあこの辺はどうってことはない、大昔の歴史ではよくあること、ましてや女性では細かな記載も無くこんがらがって伝わることもよくあることだから。

  ただ、この二人については、天明王女は息子の「金春秋(キム・チュンチュ)を産んだ後に亡くなっているだろうことは推察できるようだ。
王位を善徳女王が継いだことや、その善徳女王の亡き後には、従姉妹の「真徳女王」が継いでいることから、そう考えられても不思議ではない気がする。
天明王女が生きていれば、カリスマ性を持った善徳女王の後継者には、その姉妹である天明王女が真っ先に候補に挙がってもおかしくはないのだから。

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  そんなわけで、上の二人の姉妹は多少生まれの順があやふやになっているとはいえ、片や王位を継承し、片や後に国王となる金春秋の生母ということで、実際に存在していた姉妹なんだろうってことは、こんな素人でも推察ができる。

  分からないのが、三女の「善花姫」だ。
この三女の存在は、高麗の時代に書かれた" 三国遺事 "にだけ登場してくる。
この" 三国遺事 "は、上の善徳女王と天明王女については、真平王の娘と記されているだけで、長女だの次女だのという記述は無いのに、なぜかこの善花姫についてだけは、〝真平王の三番目の娘〟と記されているらしい。
  これからして不思議だ、「三国史記」と「三国遺事」は同じ高麗時代に書かれたものなのに、片方では存在する人物が、片方では存在していないということになり、しかも一方にははっきりと〝真平王の三番目の娘〟と書かれているのが、どうも怪しい(?)
ましてや一番古い記録書である「花郎世記」には影も形もない、この記録自体が本物・偽者の議論の的になっているものなので、真偽は定かでないとは言え、仮にも〝花郎〟と名の付く記録で王女様を記録から抹殺していることになる。
敵国の百済に嫁いだからと考えれば考えられなくもないが、やっぱり伝説上の架空の人物という気がしてならない。
ドラマ「善徳女王」はこの「花郎世記」をベースにしているのだから、当然三女の善花姫の存在が無かったわけです。

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  だけどですよ、もしこの「善花姫」が架空の人物となったら、現在放送中の「階伯(ケベク)」の義慈(ウィジャ)こと、後の義慈王はどこから湧いてきた(?)ってことになってしまう。

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  ところで、こうした歴史書の中で、もう一人なんやら出生やらが伝説に彩られてよく分からない人物がいるんですよ。
それが、義慈(ウィジャ)の父親である「武王」です。
法王の息子であったり、寡婦が産み落とした子であったり、龍の化身が産ませた子であったり様々(?)

  早い話が義慈王の両親ともが、伝説に色塗りされた、とってもわけが分からない人物なんですよねぇ。
つまり、あの有名な「薯童謠(ソドンヨ)」の主の二人ともが、歴史的な伝説の中で脚色されている人物だってことです。

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  そこでおいらの結論、この「薯童謠(ソドンヨ)」を中心にした義慈王の両親の伝説は、義慈王が作り出したものではなかろうか(?)って思うわけです。
正当な国王の後継者でなかった父親と、どこやらのわけの分からない女性との間で生まれたのが「義慈王」で、それを覆い隠すためにいろんな伝説を作り出した。
そう考えると、自分の母親にカリスマ性や悲劇性を持たせるために、新羅の王女で、父王と国境を越えた激しい恋に落ち、敵国である百済に嫁いで寂しさと苦労の中で「義慈王」を産んだ。
そうなりゃ血筋も敵国とはいえ王族の血統です、しかも激しい両親の愛の結晶として自分が存在しているわけですから… そしてそして、敵国の新羅の血を引きながらも、新羅と敵国として戦わなくてはならない…となったら、カリスマ性も民衆の同情心を得るにも充分じゃないですか(?) どうですかぁ???? おいらの想像は[わーい(嬉しい顔)]

  ちなみに、2009年に発見された 「彌勒寺址石塔」には、武王の妃は「沙宅(サテク)妃」の名前しか出てきてないそうです。

  ところで、ドラマ「階伯」の中で、ケベクに思いを寄せている「恩古(ウンゴ)」が義慈王の妃になってますが、ドラマの上ではどんないきさつでそうなるんでしょうね(?)、ちょっとこれからが楽しみです。

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「王女の男」の第1話で見られた、あのドラマのあの場所・こんな場所

  ドラマ「王女の男」は、精力的な撮影がなされて、移動も半端ではなかったようなことを耳にしています。
それを象徴するかのような第1話でした、とにかくあっちの撮影所、今度はこっちのテーマパーク、そしてあの観光地と、たったの1時間にも満たない初回放送分だけでも、各地を転々としたシーンのオンパレードです。
  そんな中、過去のドラマで登場した場所もいくつか目に付きました、今回はまったく別の使われ方をしている場所や、カメラアングルが変われば、同じ場所なのに気付かないようなものもあります。
自分が気付いたそんな過去のドラマのあの場所この場所を、少しばかり紹介していきたいと思います。


  まず最初は、キム・スンユが妓楼で寝過ごして慌てて飛び出していくシーンがありました。
あの〝妓楼〟として使われていた場所に見覚えはありませんでしたか?
場所は「聞慶KBS撮影所」、そして過去のドラマでは何度も目にしていたお屋敷でした。
  「済衆院」のソンナンの家、通訳官様のお屋敷だった場所です。
自分もじっくり見てきたあのお屋敷のセットが、なんとまあ今度は〝妓楼〟です、提灯をぶら下げて置物をちょっと変えれば、同じ場所が全然違って見えるどころか、お屋敷が妓楼に変身してしまうんですよねぇ。

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  お次のこちらは変身はしてません、ただ、ほんの一部しか映してもらえなかったよー!っていう場所です。
同じ「聞慶KBS撮影所」のシンボル的な存在の「光化門」です。
王女が宮廷を抜け出す時のシーンですね、「推奴」や「成均館スキャンダル」で目にした「光化門」のほんの一部分でした[わーい(嬉しい顔)]

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  以前のドラマでは〝学びの場所〟だったのが〝武道〟の場所へと姿を変えていたのがこちらです。
「済衆院」ではドヤンが学ぶ「成均館」だった場所が、今回では正反対の武術の場になっていたのが、多くのドラマの撮影地となっている栄州市にある「ソンビ村」に、隣接した位置関係で存在する「士文化修錬院」です。
キム・スンユの友人のシン・ミョンが華麗な武術の技を披露していた場所になっていました。

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  次の場所は、画面では分からないけれど、そこへ行った人には分かるというシーンです。
場所は「南楊州総合撮影所」、「トンイ」で紙気球が飛び、「ファン・ジニ」が綱渡りをしていたシーンが撮られた撮影所ですが、、今回の場所はその〝綱渡り〟の方に関係しています。
ドラマ「ファン・ジニ」で綱渡りをしていた場所のすぐ脇はこんな風景になっています。

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そこで、このシーンなんですが、つまりこの場所は、あの「ファン・ジニ」が綱渡りをしていたシーンが撮られたのと同じ場所なんです。

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友人のチョン・ジョンが借金取りに捕まっているのを救ったシーンだったのですが、しかし、その前にチョン・ジョンが追われて王女の輿に飛び込んだのはまた違う場所なんです、そちらは「一枝梅に」関係してますが、後ほど別の話題で書くことになりそうです[手(チョキ)]
このキム・スンユたちと出会った方のシーンだけが、「南楊州総合撮影所」が使われていたということなんです。

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  最後に控えしは、懐かしいドラマの懐かしいあのシーンの場所です。
今回の「王女の男」では、国王が娘の王女の勉強ぶりを抜き打ちで見に来たというシーンでのこの場所。

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撮影所のセットではありません、この場所は水原にある「華城行宮」です、そして、この場所で過去に撮られたシーンがこちらになります。
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「チャングムの誓い」で、医女試験の合格発表が貼り出され、合格に喜んでいたというシーンが撮影された場所というわけです。

  自分が見つけただけでも過去のドラマとの共通の場所がこんなに! それよりも何よりも、撮影所から観光地まで、以前にも紹介している「江陵」の伝統家屋や「扶安映像テーマパーク」なども含まれますから、たったの1話だけでこんなに多種多様の場所が撮影に使われていたということの方が驚きです。


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『王女の男』の第1話で、美しい景観を見せていた「広寒楼苑」

  昨日の記事、前のページでは「七夕伝説」由来の石橋のことを書かせてもらいました。
そしてその石橋が存在する美しい庭園や大きな楼閣の姿も、やはり韓国を代表する伝統的な美のひとつと言えるでしょう。
それが全羅北道 南原(ナムウォン)市にある「広寒楼苑(クァンハルルウォン)」です。
今年は韓国の観光PRでは「全羅北道 訪問の年」となっていますが、その全羅北道を代表する観光地が、「全州」の韓屋とここ「広寒楼苑(クァンハルルウォン)」で、ひとつだけの観光地とすれば、全羅北道で最も多くの観光客が訪れる名所となっているんだそうです。

「王女の男」TV画面より
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  この庭園は、当初、「広通楼」という名前で、1419年朝鮮時代初期の宰相である「黃喜」という人物によって造られたものらしいのですが、1444年に「鄭麟趾(チョン・インジ)」という人物がここを見て、あまりのその美しさに、まるで月の世界にある宮殿「広寒清虚府」のようだ、と言ったことからここを「広寒楼」と呼ぶようになったんだそうです、…とあちこちに書いてあります(笑)

  韓国では宮廷以外の場所での大庭園はなかなか存在していない中、この庭園は宮廷にも劣らない規模を誇っているという、韓国を代表する大庭園なのですが、植えられた樹木が、宮廷のような人工的な感じではなく、自然の中の樹木のような風情や景観を見せているため、その美しさはひときわのようです。
  この「広寒楼苑」は昨日も少し書きましたが、天空、つまり天体である大宇宙を表現しているのだそうです。
ドラマ「王女の男」の中で、世子が弓を射っていた場所が、ここを代表する建造物である「広寒楼(クァンハルル) 」です。
そしてその楼閣を中心にして、東西100メートル、南北59メートルという長方形の人口池が築かれ、その池の中に「永住(漢拏山)」、「蓬莱(金剛山)」、「方丈(智異山)」という三神山に見立てた島が築かれた形になっています。
つまり、大宇宙の中に、日本で言えば三霊山が存在するという形です。  
  世子が射た矢の的が置かれていたのが、ちょうど「蓬莱(金剛山)」と「方丈(智異山)」という二つの島を結ぶ橋になっています。

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  そして、この池の中には3,000匹という、在来の鯉や錦鯉が放されているんだそうです。
かなり以前にどこやらで話題になってましたが、〝人面魚〟の鯉も10匹存在しているんだそうですよ。

ところで、ここ、以前は「屋根裏部屋の皇太子」というドラマが撮影されたというロケ地でもあるそうなのですが、あいにく自分はそのドラマを知りません。
見たことのある方にとっては、「あー、あの場面だ」と思い当たる風景かもしれません。

  韓国を代表する伝統庭園である「広寒楼苑(クァンハルルウォン)」、ドラマを見ていたらついつい行きたくなってきてしまいますが、ここへのアクセスとなる「南原(ナムウォン)駅」はKTXも停車しますし、全州からのバスでのアクセスもいいかもしれません。
夜のライトアップされた風景もすばらしいようですので、夏の旅行にはちょうどいい観光名所になりそうです。
自分ももっと早くここを知っていたら、昨年の旅行で全州から行きたかったなと、ちょっとばかり残念な思いをしています。

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   韓国観光公社案内
     http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TE/TE_JA_7_1_1.jsp?cid=282137
   南原市の観光サイト
     http://jp.namwon.go.kr/jp/index.jsp





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『王女の男』に登場した宮廷庭園の石橋は、「七夕伝説」にまつわる〝愛の橋〟

  いよいよ始まりました「王女の男」、比較的時代劇の場合は韓国で人気があったものは、日本でもかなり期待できるので今後の展開が楽しみです。
24話完結なので、テンポよくイライラなしのドラマ展開がされそうってところが、自分みたいな短気な野郎にはもってこいのドラマかもしれません(笑)
だけど、どうもNHKさんの吹き替えには辟易ですねえ、特にあの世子の声ったらまるっきりアニメの少年だっせ、とにかく吹き替えが全体的な雰囲気をぶち壊してる気がしてならないのは自分だけですか?

  さてさて、その「王女の男」開始後の一発目は、見事な庭園を見せていた「広寒楼(クァンハルル) 」の話題からいきたいと思います。
ただし、その庭園やら全てを含めた「広寒楼」は次の話題に持ち越しさせていただいて、今日のところは見事な風景を演出していた池に架かる長い石橋の話題にしたいと思います。

  ちょうど昨日は七月七日の七夕でしたから、話題としてはとってもタイムリーだと思うのですが…[わーい(嬉しい顔)]

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  王女たちが渡っていた長くて見事な石橋、名前を「烏鵲橋(オジャッキョ)」といいます、なんとまあ難しい漢字ですが、日本語では〝うじゃくきょう〟と読みます。
烏鵲(うじゃく)とは鳥のカササギ、韓国ではカラスの代わりにやたら目にする白と黒の鳥の名前です。
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なんでこんなカラスの親戚の名前が付けられてるのか(?)と調べましたら、そこには意味があったんですよねえ、それが七夕(たなばた)に関わることなんです。
  古代中国に、カササギは〝七夕の夜に橋を作る〟という伝説があって、そこからこの橋の名前は由来しているようです。
自分が読んだものにはどこにもそんなことは書いてありませんでしたが、多分そうだと思います、という、いい加減無責任なおいらですが、多分正解だと思いますよ、なんたって韓国ってけっこう古代中国の伝説を取り入れています。
  そして何よりも、この庭園自体が天空を表現している庭園なんです、そして空にある川と言えば(?) んだ、「天の川」ですよねえ、そんでもって七夕の夜にカササギが橋を作れば、渡るのは彦星さんと織姫星さん、この織女と牽牛の伝説自体が古来中国のものなんですねえ。
ということで、カササギが作った橋という意味があるということになります。
  
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  回りくどく書きましたが、この「烏鵲橋」は天の川に架かる橋を表現しているものらしいのです、だけど天の川は年に一度しか渡れませんが、こちらの天の川に架かる「烏鵲橋」は、いつでも何度でも渡ることができます。
そして韓国では知らない人はいないといわれる、「春香伝」という愛の小説の舞台として有名な場所なんだそうです。
  そんなことから、文明が進んだこの現代でも、恋人達を結ぶ〝愛の橋〟として、それこそ愛を育む都市伝説のパワースポットとして語り継がれている橋でもあるんです。
恋人同士を結びつけるだけじゃない、夫婦和合、言い換えれば子宝も授かるというとっても有り難い橋だそうで、年に一度以上渡れば子供が授かるそうですよ、お年寄りのご夫婦なんかは一度渡るくらいにしとかなきゃ大変ですよねえ、80過ぎて子宝にめぐまれちゃったよーって(笑)
  一説には、処女でない女性が渡れば橋が崩れるなんて言い伝えもあったりするそうで、昨今の事情を考えたらとうにこの橋は崩れ去ってます[ちっ(怒った顔)]
でもこれは無いっしょ、それじゃ夫婦和合と噛み合わんだろうってことになっちゃいます[たらーっ(汗)]

  なんにしても、早い話が〝縁結び〟&〝子宝祈願〟というところ、過去の逸話から結びつける都市伝説のスポット、どこの国でもこういうのはおんなじみたいですね[わーい(嬉しい顔)]

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  なんでもこの石橋は幅が2.4メートル、長さが57メートルもあるそうで、韓国の庭園に架けられた石橋としては最長の長さを誇っているそうです。
しかも、広寒楼などの建物は壬辰倭乱(イムジンワラン)で消失して1626年に復元されてますが、この「烏鵲橋」だけは最初の1419年当時のままの姿を残しているといいます。

  「王女の男」は韓国の伝統的な美しい姿を映像の中で随所に見せてくれるようです。
その最初ともいう美しい伝統庭園の姿、そしてそこに架かる石橋は、古い〝七夕伝説〟にまつわる韓国を代表する石橋だったのです。
そして昔も今も変わらない愛の願いが込められた橋でした。

  では今日のところは「七夕」の翌日ってことで、それにまつわる橋の話題にしましたが、次回は「広寒楼(クァンハルル)」苑自体を話題にしたいと思います。 



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【韓ドラ雑記】 あのドラマのあの人の、意外な姿で見始めた 現代ドラマ「私の心が聞こえる?」

  自分が連続して視聴する韓国の現代ドラマなんて、ほんの稀で、続けて見る気になるなんてのは年に数作程度。
昨年に見たドラマは、「赤と黒」と「明日に向かってハイキック」と、ってな感じで、すぐに指折り数えられてしまえます[わーい(嬉しい顔)]

  そして今年はもう半分が過ぎたのに、時代背景的に完全な現代ドラマと言える作品はひとつも無いという状況だったのですが、ここにきて今年初の連続して見始めた現代ドラマがあります。
とはいっても、見始めたのは第8話目からで、まだホカホカもホカホカ、今週からなんですよね。


  主人公が耳が聞こえないとかいう、テレビ予約の解説を見てちょっと興味が沸き、その主役が一昨年の「韓国地上軍フェスティバル」で、直に〝キラースマイル〟を目にしたキム・ジェウォンということで、「この人ドラマに復帰したんだぁ」という、そんな興味からちょっと録画して見てみることにしたんです。
そうしたら、多分これは最終回まで続けて見る今年初の現代ドラマということになりそうです。
それが「私の心が聞こえる?」というドラマです。

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  もちろん韓国ドラマですから(?)、復讐とか複雑な人間模様とかありますが、ドロドロ感がなくってなんやらホンワカしていて、なんとなくあったかい感があるんですよ。
自分が視聴する韓国の現代ドラマは、何故だか韓国ではあまり視聴率が振るわなかったものが多いのですが、やっぱりこのドラマもそのようです。
現代ドラマに限っては、どうも韓国の皆さんの嗜好と自分の嗜好は一致してないようで(笑)、このドラマも韓国人よか日本人向きのドラマではないかと思っている次第です、自分が日本人代表ってわけではないですが(当然です!)[たらーっ(汗)]

  ところで、このドラマのあっかい感を出しているのが、意外な人物なんですよねえ、以前にも書きましたが、この人ったらいったいどれだけの顔があるんだろうって感じです。
確かによくよく見れば、顔のつくりは同じなんですよぉ(あったりまえじゃい!)、なのによくもこんなに変身ができるものだと感心してしまいます。

  その人の名は「チョン・ボソク」、前にも書きました、「明日に向かってハイキック」のちょっと頼りないお間抜けな父親が、「ジャイアント」でのあの冷徹なチョ・ピルヨンだっていうことで驚いたものです。
そうしたら、その昔は「大祚榮(テジョヨン)」で、爬虫類のような憎々しい顔のイ・ヘゴをやってた人だぁ、「商道(サンド)」でも冷たいライバルのチョン・チスを演じてた人やんけ!ってことで、あの「明日に向かってハイキック」の父親役が信じられへん!!!と、もっと〝びっくりマーク〟を付けたいくらいの驚きでした。

「明日に向かってハイキック」より
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  ところが、今度はその上を行く〝びっくりマーク〟をいくつ付けたらいいねんッ!という役で、しかもそれがまたよく似合ってる。
知的障害をもち無邪気な子供のような父親役、しかも実の子でない娘や家出した実の息子(だと思ってる)を誰よりも愛する、純粋でとってもやさしい役なんです、この人を見ながらついつい笑顔になっている自分がいます。

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  このチョン・ボソクが演じる父親のポン・ヨンギュが、このドラマをとっても暖かいものにしているんですよねぇ!
確かに悪役の時の、あの爬虫類顔なんです(笑)、それなのにその同じ顔で、どうやったらこんな暖かい人間味が出せるんだろうって、もう驚きを通り越している自分です。
そんなんで、もうこのドラマから目が離せなくなってしまった自分になってしまいましたー[わーい(嬉しい顔)]

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  「商道(サンド)」を見たことのある人
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  「大祚榮(テジョヨン)」を見たことのある人
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  「ジャイアント」を見たことのある人
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  ぜひぜひこの「私の心が聞こえる?」を、ドラマの好き嫌いに関係なく一度試しに見てやってください、きっと自分と同じ〝信じられへん!〟を味わうと思いますよ[手(チョキ)]

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「王女の男」の時代背景から  「定順王后」を支えた韓国(朝鮮)らしい〝女性パワー〟

  よく韓国の人たちの気質で、「他人の領域に遠慮なく入り込んでくる」なんて言われることがあります。
日本人から見ると「うっとうしい!」 と感じたりもしがちですが、その裏を返せば「他人のことだろうがほっとけない」みたいな世話好きな一面と捉えることもできます。
特に、少しばかりご年配の女性ともなれば、そんな傾向が強くなったりもします[わーい(嬉しい顔)]、どことなく関西人の気質に似ているような(?)気もしなくはない。

  前のページで書いたように、夫の端宗(タンジョン)こと魯山君(ノサングン)も亡くなり、格も落とされ宮中も出て、庶民の生活を強いられることになった定順王后(チョンスンワンフ)と三人の侍女、魯山君の菩提を弔い冥福を祈っていれば、腹も減らなきゃ食い物もいらないというわけにはいきません、ごく普通の人間なんですから、とにかく貧しいながらも生活を始めます。

  そんな姿に同情を募らせ、庶民達の間で噂が広まって困るのは、世祖を筆頭にした朝廷側のやからです。
民心が同情に傾いてしまえば、後ろ暗い自分たちなのですから、あくまで反逆者の妻でいてもらいたいわけです。
そこで、建物を与えて面倒をみようと持ちかけますが、断固拒否されてはどうしようもできない。

  ただ、王后の方も、仇である朝廷の援助は受けたくはないものの、意地だけでは食べていけませんから、リボンなどのちょっとした布の小物を作っては近所で売ったりして食い繋いでいきます。
しかし女四人が食べていくのはやはり無理がありますから、食うや食わずの苦しい生活を強いられることになってしまいます。

  そんな様子を目にし、耳にした近所の庶民の皆様が見兼ねて救いの手を差し伸べます。
内緒で少ないながらも食べ物などを運んでくれるようになります、しかし、朝廷の目がありますから大っぴらにはできません。
何しろ王后は朝廷側にとっては〝要注意人物〟なのですから、親しくしていつも援助するなんてことはできません。
それこそ目を盗むようにして、こっそりと庵の前に置いてくるとか、そんなことしかできないのですが、しかしそれすらもなかなか容易なことではないのです。

  そこで女性たちは考えた! そしてなんとか王后を援助する方法はないものかと考え抜いて、ついに絶妙な方法を思いついたのです。

  大勢の女性だけが集まり、女性だけで売り買いをする市場を、王后の庵の側で立ち上げることにしました。
もちろんそこは〝8歳以上の男子禁制〟として、朝廷の役人だろうが誰だろうが、男という男は一切排除するという方法をとったのです。
後世に伝わる 『女人市場』 の誕生です。

  こうして女性だけの市場が出現し、野菜や穀物などを売り買いするという名目の元、役人の目も気にすることなく侍女を介して、王后に食べ物などの援助ができるようになりました。
まさしく韓国(朝鮮)の女性パワー発揮といったところです。
  朝鮮時代なんてのは、男尊女卑が顕著な時代です、そんな時代にこんなことができたのは、よっぽと大勢の女性の力が結集されたに違いありません。
それくらいに王后の姿は傍目にも放ってはおけないほど、痛ましくも健気に映っていたのでしょう、特に同じ女性の目には。
朝廷がどうであろうが、もう民心は端宗や定順王后への同情心でいっぱいだったのだろうと思います。
  日本でいえば、あの「赤穂浪士」に同情し応援した、お江戸の皆様方と似たような庶民の感情だったのかもしれません。

  こうして、定順王后は庶民の力を借りながら、82歳という生涯を終えました、まるで端宗の分の寿命も半分引き受けたような、当時としては天寿を全うしたと言えるのではないでしょうか。
しかしそれも、64年間を支え続けた、朝鮮の〝女性パワー〟があったればこそだったのです。

  その市場があった場所は、現在は小学校になっていて、碑のみが残されているそうです。

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  悲劇の幼き国王「端宗」と「定順王后」の話題は、一旦ここで休止です、またドラマ「王女の男」の展開とともに、この「端宗」を含めた〝「王女の男」の時代背景〟の話題を書いていきたいと思っています。

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「王女の男」の時代背景から  「端宗(魯山君)」の妻「定順王后」は、60年以上も冥福を祈るだけの哀しい〝未亡人〟

  ソウルの都心にその姿を甦らせた「清渓川(チョンゲチョン)」、散策というよりも、ほんの少し歩いてみたのは三度ばかりあります。
ここって後から後から、こういうものがあるとかって知って、「ヘェー、そうなんだ」と改めて思うことがよくあります。

  ここに架かる橋にもこんな話が残っているなんてことは、今回になって初めて知りました。
いや、本当は、きっと以前にも観光の記事で目にしていたのかもしれない、だけど、こういうのは決まってざっと読む程度ですから、こうして改めて興味を持って調べないと意識なんてしないものです。

  この「清渓川」に架かる橋のひとつに「永渡橋(ヨンドギョ)」という橋があるそうです。
きっと自分も実際に目にしたことがあるのかもしれませんが、「清渓川」の畔を歩く際に上に架かっている橋のひとつですから、これまでそんな橋をまったく意識したことなんてありません。
しかも、昔ながらの風情を残すような橋とかいうのなら、多少は風景のひとつとして目にもとまるのでしょうが、普通の橋のひとつでは意識しろという方が無理というものです。

  この「清渓川」に架かる橋のひとつにすぎなかった「永渡橋(ヨンドギョ)」が、悲劇の幼き国王「端宗(タンジョン)」にまつまる名前が付けられていた橋だったなんて知りませんでした。
っていうか、これまで「端宗」自身を知ろうとしたことがありませんでしたから、当然のことですけどね、こうやってドラマで興味を持たないと調べない、韓国知識を増やすもドラマ次第という困った人間です(笑)

  さてその「「永渡橋(ヨンドギョ)」、流刑になる端宗とその妻である「定順王后(チョンスンワンフ)」はここで別れたのだと言われます。
流刑になる「端宗」がこの橋を渡り、そのたもとで涙ながらに見送るしかない「定順王后」、想像するとドラマの感動シーンにもなりそうな絵です。
そして「端宗」は流刑地である寧越(ヨンウォル)でそのまま賜死しますから、永遠にこの橋をまた渡って戻ることはなかったわけです。

  そこで付いた名前が「永渡橋」 〝永久に渡る橋〟という意味なんだということです。
でもね、〝永久に渡る橋〟って自分としては納得がいかない、〝永遠に渡ったままの橋〟ではないかい(?)[わーい(嬉しい顔)]
そんなこたあどうでもいいとして、「端宗」は二度とこの橋を再び渡って「定順王后」の元へ戻ることはなかったんです。
この時に妃である「定順王后」は16歳か17歳、そして、「端宗」が賜死したのがその年の10月ですから、いわゆる〝未亡人〟になってしまったのは多分17歳ということになります。
  (注: 満年齢で書いていますので、数え年齢の記録とは異なる場合があります)
  ちなみに、この「定順王后」は生まれた年は1440年ですが月日は定かではないんです。
まだ13歳か14歳で「端宗」の嫁さんになって、17歳で未亡人です、幸せな結婚生活を何十年も(?)続けてみえるえりなーさんやガリィママさん!想像できますかぁ?

「永渡橋」
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  この後がお気の毒なんです。
  端宗が送られた寧越(ヨンウォル)の方角が見える東大門近くに草庵を築いて、侍女三人と端宗の冥福を祈りながら貧しい暮らしを始めたんだそうです。
そして朝夕と欠かさずその東にある「東望峰(ドンマンボン)~鍾路区(チョンノグ)崇仁洞(スンインドン)」に登っては、寧越の方を眺めて冥福を祈るのを忘れなかったと言われます、この場所の名前もそれにちなんでいるそうです。
そんな哀れな姿は近くの民たちの同情を誘い、その生活を助けたなどということも書かれていたりします。
それを見兼ねた朝廷が住まいを建てて援助しようとしたりしますが、定順王后は絶対にそれを拒んで、興仁門(フンインムン))近くにある東望峰(ドンマンボン)の西の下にあった「浄業院」でその後亡くなるまで過ごしたそうです。
もちろん、東望峰に登り端宗の冥福を祈るのも死ぬまで続けられたと伝えられています。

毎日冥福を祈ったという「東望峰」
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  4年にも満たない端宗との夫婦生活です、しかも10代で未亡人になり、亡くなったのが81歳か82歳です、それまでの64年余りを端宗に捧げ続けてその冥福を祈って生きていたなんて、本当に何のための人生だったんだか[もうやだ~(悲しい顔)]
なんでまたそんなに長生きしちゃったんでしょうねえ、それが余計に気の毒な気がします。

  「定順王后」が暮らしたという「浄業院」の名残りは、現在の「青龍寺(チョンリョンサ)~ 鍾路区(チョンノグ)崇仁洞(スンインドン)」の脇に、碑閣のみがあるだけのようです。
この「青龍寺」は、端宗と定順王后が最後の夜を共にした場所だとも言われています(?)し、暮らした「浄業院」自体がここだと書かれたものもあります(?)

「端宗」と「定順王后」が最後を過ごしたと言われる「青龍寺の雨花楼」
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  そしてそこにある碑閣を築いたのが英祖王、そして墓石や懸け板などの文字も英祖王が書いたものだそうです。
さすがは「トンイ」の息子です、情に厚い一面が見られますよねえ、しかも「涙無しでは書けない」などという文字もあるそうで、やっぱり暖かい人間だったのかもしれません、息子は死なせてしまいましたが…。

「浄業院碑閣」
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「英祖」の書とされるもの
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  ただ、この「定順王后」が暮らしたとされる「浄業院」は、尼寺で行き場の無い後宮たちが余生を過ごしたお寺の「正業院」と多くはなっていますが、「定順王后」の「浄業院」とその「正業院」とがごちゃ混ぜになっているようでよく分かりません。
世祖の即位三年目に、当時は廃止されていた、子供の無い後宮を集めた「正業院」というのを復活させたのは確かなようで、ただそれは昌徳宮の近くの城内にあったらしいということですから、どうやら哀れな宮廷女性が暮らしたお寺という共通点で一緒にされている感が強いみたいです。
「英祖」が築いた「浄業院」の碑閣そのものも、本来の「正業院」ではなく、定順王后が暮らしたとされる伝説的な場所に建てられたようです、ただ 自分は歴史家でもなんでもありませんので、とにかく「浄業院」と「正業院」そして「青龍寺」でこんがらがってます[ちっ(怒った顔)]

  なんにしても、10代で未亡人になり、剃髪して尼僧になり、たった4年弱というだけの夫「端宗」の冥福を祈る、それだけで64年余りを生きていた女性、端宗以上に哀れだと思います、妃候補に選ばれなかったらもっと別の人生があったはずですから。

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「王女の男」の時代背景から  「端宗(魯山君)」と『子規楼』の切ない話し

  いよいよ、今度の日曜から「王女の男」が始まります。
キム・スンユのこととか、フィクションでの部分は「ドラマだねえ」って思いながら、これから毎週楽しんでいけばいいのですが、自分としてはやっぱりノンフィクションの部分での歴史も気になるところです。
  中でも、若干16歳という、まだ少年の時期に短い生涯を終えた、いえ、奪われた「端宗(タンジョン)」はとっても興味深い人物です。
世子から国王へという、まだ少年とはいえ正当な後継者でありながら、理不尽な叔父によって奪われた人生、その哀れな生涯は計り知れないものがあります。
ですから、少しばかりこの「端宗」のことを書いてみることにしました。

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  まだ11歳で父王が亡くなり国王となった「端宗」、幼い国王の場合は周囲の力が強ければなんとかなるものです。
ところが、この「端宗」の場合はキム・ジョンソを始めとして、決して補佐する力が弱すぎたわけでもない、ただ、本来なら補佐してくれるべき叔父の権力欲が尋常ではなかったというのが、本当に不運だったとしか言いようがありません。
  「首陽大君(スヤンテグン)」と廃位された我が(?)「光海君(クァンヘグン)」の違いってありますか?
本来の後継者を殺戮と陰謀で抹殺したという点では、むしろ「首陽大君」の方が悪どい気がするのですが、これが歴史の上での勝者と敗者の違いなんでしょうね、歴史は時々の勝者が作り出すものの典型のような気がします。


  さて、「端宗」ですが、叔父に尻を蹴飛ばされて追い出され、踏みにじられて(なんちゅう例えやねん)、1457年 6月に流刑の身となりますが、元々は「清冷浦(チョンリョンポ)」という、現在の江原道(カンウォンド)寧越(ヨンウォル)郡の南漢江上流地域でした。
ところが、大洪水で清冷浦一帯が浸水してしまったために、寧越府の客舎「観風軒(クァンプンクォン)」に移ります。
そして、降格され魯山君(ノサングン)」となった「端宗」の最期、毒薬での賜死(しし)の場所もこの「観風軒」ということになってしまいました、それが1457年12月24日(旧暦)のことです。

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  この「東軒」である客舎「観風軒」から500メートルほどの場所に「梅竹楼(メズックル)という楼閣があります。
寧越(ヨンウォル)に移って来てからの魯山君は、よくこの楼閣にいたそうです。
そして都を思い、生き別れた妻を思い、何よりも自分の運命をどんなにか嘆き悲しんだことか、ましてやまだ少年という身では耐え難い思いでいたと思います。

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  この「梅竹楼」でいくつかの詩を作ったと言われています、それが「莊陵(チャンルン)誌」に刻まれた「端宗子規詩」です。
そして、日本でもドラマなどで知られるその詩のひとつがこれです。

  『一自寃禽出帝宮   孤身隻影碧山中   假面夜夜眠無假   窮恨年年恨不窮
      聲斷曉岑殘月白   血流春谷洛花紅
               天聲尙未聞哀訴   何奈愁人耳獨聽』
  なんのこっちゃねん!ですよね、これの韓国の方の訳詩をまた自分なりの表現に置き換えて、日本語の詩にしてみました。

  『無念の思いを胸に 宮を追われし一羽の鳥   
  孤独なその身に慕う影も無く ただ彷徨う碧(あお)い山の中

     幾夜訪れども 安らぐ眠りはかなわず
     幾年過ぎれども 我がこの悔しき思いは果て無し

    ホトトギスの声が途絶えし暁の峰に 月の明かりは白く
               血を撒いたかの如く散る花のみが 赤き春の谷 

  天に我が声は聞こえず 我が哀しき願いは届かぬ
         何故に愁い多き人の耳さえ このように聞こえしものを 

  これが十代の少年の詩? そうは思えません、そして何とも切ないです。
  万物を見下ろす天には耳が無く何も聞こえないのですか? こんなに哀しく切なる声も聞いてもらえないなんて…、愁いばかりの人間でしかない自分の耳でさえこんなに聞こえるのに…。
孤独と悔しさに満ちたこの自分をなんとかしたい、だけど何もできない、そんなジレンマがヒシヒシと伝わってきそうです。
  この魯山君がよく訪れていた「梅竹楼」は、ホトトギスの鳴き声がよく聞かれたんだそうです。
ホトトギスは〝鳴いて血を吐く〟と言われます。
実際に血を吐くわけではありませんが、口の中が赤いことや鳴き声から故事でそんな言い伝えがあるようです。
そんなホトトギスを、苦しみの中であえぐ自分と重ね合わせていたのかもしれません。

  魯山君の死後、この「梅竹楼」は「子規楼」と呼ばれるようになりました。
〝子規〟はホトトギスの別名です、寧越の人々はこの楼閣に、残酷な運命に翻弄された「魯山君」の姿を偲んだのだと思います、ホトトギスの鳴き声とともに…。

  魯山君の話はまだもう少し続きます。

「子規楼」と「梅竹楼」の二枚の懸け板
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