「王女の男」の時代背景から 「端宗(魯山君)」と『子規楼』の切ない話し
いよいよ、今度の日曜から「王女の男」が始まります。
キム・スンユのこととか、フィクションでの部分は「ドラマだねえ」って思いながら、これから毎週楽しんでいけばいいのですが、自分としてはやっぱりノンフィクションの部分での歴史も気になるところです。
中でも、若干16歳という、まだ少年の時期に短い生涯を終えた、いえ、奪われた「端宗(タンジョン)」はとっても興味深い人物です。
世子から国王へという、まだ少年とはいえ正当な後継者でありながら、理不尽な叔父によって奪われた人生、その哀れな生涯は計り知れないものがあります。
ですから、少しばかりこの「端宗」のことを書いてみることにしました。
まだ11歳で父王が亡くなり国王となった「端宗」、幼い国王の場合は周囲の力が強ければなんとかなるものです。
ところが、この「端宗」の場合はキム・ジョンソを始めとして、決して補佐する力が弱すぎたわけでもない、ただ、本来なら補佐してくれるべき叔父の権力欲が尋常ではなかったというのが、本当に不運だったとしか言いようがありません。
「首陽大君(スヤンテグン)」と廃位された我が(?)「光海君(クァンヘグン)」の違いってありますか?
本来の後継者を殺戮と陰謀で抹殺したという点では、むしろ「首陽大君」の方が悪どい気がするのですが、これが歴史の上での勝者と敗者の違いなんでしょうね、歴史は時々の勝者が作り出すものの典型のような気がします。
さて、「端宗」ですが、叔父に尻を蹴飛ばされて追い出され、踏みにじられて(なんちゅう例えやねん)、1457年 6月に流刑の身となりますが、元々は「清冷浦(チョンリョンポ)」という、現在の江原道(カンウォンド)寧越(ヨンウォル)郡の南漢江上流地域でした。
ところが、大洪水で清冷浦一帯が浸水してしまったために、寧越府の客舎「観風軒(クァンプンクォン)」に移ります。
そして、降格され魯山君(ノサングン)」となった「端宗」の最期、毒薬での賜死(しし)の場所もこの「観風軒」ということになってしまいました、それが1457年12月24日(旧暦)のことです。
この「東軒」である客舎「観風軒」から500メートルほどの場所に「梅竹楼(メズックル)という楼閣があります。
寧越(ヨンウォル)に移って来てからの魯山君は、よくこの楼閣にいたそうです。
そして都を思い、生き別れた妻を思い、何よりも自分の運命をどんなにか嘆き悲しんだことか、ましてやまだ少年という身では耐え難い思いでいたと思います。
この「梅竹楼」でいくつかの詩を作ったと言われています、それが「莊陵(チャンルン)誌」に刻まれた「端宗子規詩」です。
そして、日本でもドラマなどで知られるその詩のひとつがこれです。
『一自寃禽出帝宮 孤身隻影碧山中 假面夜夜眠無假 窮恨年年恨不窮
聲斷曉岑殘月白 血流春谷洛花紅
天聲尙未聞哀訴 何奈愁人耳獨聽』
なんのこっちゃねん!ですよね、これの韓国の方の訳詩をまた自分なりの表現に置き換えて、日本語の詩にしてみました。
『無念の思いを胸に 宮を追われし一羽の鳥
孤独なその身に慕う影も無く ただ彷徨う碧(あお)い山の中
幾夜訪れども 安らぐ眠りはかなわず
幾年過ぎれども 我がこの悔しき思いは果て無し
ホトトギスの声が途絶えし暁の峰に 月の明かりは白く
血を撒いたかの如く散る花のみが 赤き春の谷
天に我が声は聞こえず 我が哀しき願いは届かぬ
何故に愁い多き人の耳さえ このように聞こえしものを
これが十代の少年の詩? そうは思えません、そして何とも切ないです。
万物を見下ろす天には耳が無く何も聞こえないのですか? こんなに哀しく切なる声も聞いてもらえないなんて…、愁いばかりの人間でしかない自分の耳でさえこんなに聞こえるのに…。
孤独と悔しさに満ちたこの自分をなんとかしたい、だけど何もできない、そんなジレンマがヒシヒシと伝わってきそうです。
この魯山君がよく訪れていた「梅竹楼」は、ホトトギスの鳴き声がよく聞かれたんだそうです。
ホトトギスは〝鳴いて血を吐く〟と言われます。
実際に血を吐くわけではありませんが、口の中が赤いことや鳴き声から故事でそんな言い伝えがあるようです。
そんなホトトギスを、苦しみの中であえぐ自分と重ね合わせていたのかもしれません。
魯山君の死後、この「梅竹楼」は「子規楼」と呼ばれるようになりました。
〝子規〟はホトトギスの別名です、寧越の人々はこの楼閣に、残酷な運命に翻弄された「魯山君」の姿を偲んだのだと思います、ホトトギスの鳴き声とともに…。
魯山君の話はまだもう少し続きます。
「子規楼」と「梅竹楼」の二枚の懸け板
キム・スンユのこととか、フィクションでの部分は「ドラマだねえ」って思いながら、これから毎週楽しんでいけばいいのですが、自分としてはやっぱりノンフィクションの部分での歴史も気になるところです。
中でも、若干16歳という、まだ少年の時期に短い生涯を終えた、いえ、奪われた「端宗(タンジョン)」はとっても興味深い人物です。
世子から国王へという、まだ少年とはいえ正当な後継者でありながら、理不尽な叔父によって奪われた人生、その哀れな生涯は計り知れないものがあります。
ですから、少しばかりこの「端宗」のことを書いてみることにしました。
まだ11歳で父王が亡くなり国王となった「端宗」、幼い国王の場合は周囲の力が強ければなんとかなるものです。
ところが、この「端宗」の場合はキム・ジョンソを始めとして、決して補佐する力が弱すぎたわけでもない、ただ、本来なら補佐してくれるべき叔父の権力欲が尋常ではなかったというのが、本当に不運だったとしか言いようがありません。
「首陽大君(スヤンテグン)」と廃位された我が(?)「光海君(クァンヘグン)」の違いってありますか?
本来の後継者を殺戮と陰謀で抹殺したという点では、むしろ「首陽大君」の方が悪どい気がするのですが、これが歴史の上での勝者と敗者の違いなんでしょうね、歴史は時々の勝者が作り出すものの典型のような気がします。
さて、「端宗」ですが、叔父に尻を蹴飛ばされて追い出され、踏みにじられて(なんちゅう例えやねん)、1457年 6月に流刑の身となりますが、元々は「清冷浦(チョンリョンポ)」という、現在の江原道(カンウォンド)寧越(ヨンウォル)郡の南漢江上流地域でした。
ところが、大洪水で清冷浦一帯が浸水してしまったために、寧越府の客舎「観風軒(クァンプンクォン)」に移ります。
そして、降格され魯山君(ノサングン)」となった「端宗」の最期、毒薬での賜死(しし)の場所もこの「観風軒」ということになってしまいました、それが1457年12月24日(旧暦)のことです。
この「東軒」である客舎「観風軒」から500メートルほどの場所に「梅竹楼(メズックル)という楼閣があります。
寧越(ヨンウォル)に移って来てからの魯山君は、よくこの楼閣にいたそうです。
そして都を思い、生き別れた妻を思い、何よりも自分の運命をどんなにか嘆き悲しんだことか、ましてやまだ少年という身では耐え難い思いでいたと思います。
この「梅竹楼」でいくつかの詩を作ったと言われています、それが「莊陵(チャンルン)誌」に刻まれた「端宗子規詩」です。
そして、日本でもドラマなどで知られるその詩のひとつがこれです。
『一自寃禽出帝宮 孤身隻影碧山中 假面夜夜眠無假 窮恨年年恨不窮
聲斷曉岑殘月白 血流春谷洛花紅
天聲尙未聞哀訴 何奈愁人耳獨聽』
なんのこっちゃねん!ですよね、これの韓国の方の訳詩をまた自分なりの表現に置き換えて、日本語の詩にしてみました。
『無念の思いを胸に 宮を追われし一羽の鳥
孤独なその身に慕う影も無く ただ彷徨う碧(あお)い山の中
幾夜訪れども 安らぐ眠りはかなわず
幾年過ぎれども 我がこの悔しき思いは果て無し
ホトトギスの声が途絶えし暁の峰に 月の明かりは白く
血を撒いたかの如く散る花のみが 赤き春の谷
天に我が声は聞こえず 我が哀しき願いは届かぬ
何故に愁い多き人の耳さえ このように聞こえしものを
これが十代の少年の詩? そうは思えません、そして何とも切ないです。
万物を見下ろす天には耳が無く何も聞こえないのですか? こんなに哀しく切なる声も聞いてもらえないなんて…、愁いばかりの人間でしかない自分の耳でさえこんなに聞こえるのに…。
孤独と悔しさに満ちたこの自分をなんとかしたい、だけど何もできない、そんなジレンマがヒシヒシと伝わってきそうです。
この魯山君がよく訪れていた「梅竹楼」は、ホトトギスの鳴き声がよく聞かれたんだそうです。
ホトトギスは〝鳴いて血を吐く〟と言われます。
実際に血を吐くわけではありませんが、口の中が赤いことや鳴き声から故事でそんな言い伝えがあるようです。
そんなホトトギスを、苦しみの中であえぐ自分と重ね合わせていたのかもしれません。
魯山君の死後、この「梅竹楼」は「子規楼」と呼ばれるようになりました。
〝子規〟はホトトギスの別名です、寧越の人々はこの楼閣に、残酷な運命に翻弄された「魯山君」の姿を偲んだのだと思います、ホトトギスの鳴き声とともに…。
魯山君の話はまだもう少し続きます。
「子規楼」と「梅竹楼」の二枚の懸け板