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長い間、ありがとう

ずっとずっと続けてきた、韓国の話題を取り入れながらのブログ。
続編の「今韓日触(きんかんにっしょく)」でもう何年になるんでしょう?
その間に年をとり、生活が変わり、本当にいろいろなことが身の回りでありました。

そんな自分の生活と同じように、日本と韓国の関係もいろいろと事情が変わってきましたよね。
政治と旅行やドラマを楽しむのは別物とずっと考えていたのに、やっぱりここまで国通しのすれ違いや考え方の壁があると、どうしても引いてしまって、だんだんと遠のいてしまうっていうのは、仕方のないことだとも思うのです。

こうしてブログを立ち上げて、12回という旅行をした韓国という国なのに、今は「また行こう」という気にはなれない自分がいます。
そして、あんなにのめり込んだ韓国時代劇も、やっぱり以前とは様変わりしてしまって、夢中になれるものが登場してこない、〝時代劇〟〝史劇〟というものは、どこの国もだんだんと魅力ある作品が無くなっていくというのは運命なのでしょうか?

何はともあれ、気持ちが韓国から離れるにつれて、ずっとずっとほったらかしにしてきたこのブログ、いつまでもほったらかしというのは無責任なので、ここでけじめをつけることにしました。
韓国からは全面的に離れたブログへと移行することにしました。
これまで訪れてくださった皆さん、350万という驚きの閲覧数も皆さんのおかげです、そして、今でも毎日300人とか500人とか訪れてくださっています、本当に嬉しい話しです。
このブログは自分が歩んだ証しのひとつとしてずっと残させて頂きます、が、もう更新することはありません。
本当に本当に本当に…長い間ありがとうございました。

これから立ち上げるブログは、まったく韓国には関係のない内容になりますので、タイトルとかお知らせしませんが、偶然に立ち寄っていただけることがあるかもしれません、その時にはまたよろしくお願いします<(_ _)>
自分は写真が嫌いで、韓国旅行をしても自分の画像は殆どありませんが、数少ない〝韓国にいる自分〟
を残してお別れさせていただきます、

さようなら…
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b 景福宮 (19).jpg

韓国画像のページ ⑥ 祝!「南大門」再建・一般公開 ということでソウルの仲間の〝門〟達を集めてみました

  今日、2013年5月5日、2008年に放火で消失した「崇礼門(スンネムン)」通称「南大門」が再建されて一般公開されます。
新しい方のブログではなんだかんだと結構こけおろしていますが_(._.)_ 、まあまあソウルの皆さんにとっては嬉しい日であろう(?)ってことで、喜びを共に分かち合おうということで(笑)、ソウルのお仲間の〝門〟の皆様に集合していただきました[わーい(嬉しい顔)]

  どれがどこの門か判りますか?

まずは、跡継ぎが誕生して喜んでみえることでしょう、「旧南大門」からです。
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次は古宮代表の〝門〟たちです
b 景福宮 (7).jpgk 世界遺産・昌徳宮 (1).JPG
慶熙宮 (1).jpg昌慶宮.JPG

ピカピカ新品の「再建仲間」の誕生で喜んでいるのが
光化門.JPG

そしてお仲間の最後は、「相棒が戻ってきてよかった」、とは言うものの、「相棒よかやたら古めかしい年寄りにみえるやんか!」と言っていそうな…(笑)
東大門.JPG

ラストはもちろん「新生 南大門」
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新しいブログです

新しいブログを立ち上げました。

タイトルは「今・韓・日・触(きんかんにっしょく)」です。
韓国の話題ばかりじゃなく、テレビなどを見ていて思い出したり、書いてみたい日本の観光地なども幅広くしてみました。
  ということで、「今、韓国や日本に触れる」という意味を込めてこんなタイトルにしてみました。

  この「自由気ままな韓国一人旅」の続編にもなっていますので、どうかよろしくお願いします_(._.)_

   http://hanlove-8.blog.so-net.ne.jp/

   最初の記事は、日本と韓国の話題をふたつ同時にアップしてみました。

「善徳女王」の父「真平王」も美室(ミシル)の愛人???  【当ブログの最終回】

  ドラマ「善徳女王」の元となったのが『花郎世記』という記録だというのですが、この記録は、元々は日本の宮内庁書陵部に秘蔵されていたのを、朴昌和と言う人物が密かに書き写していたとされる筆写本が、1989年に見つかったものなんだそうです。
ところが偽物だと主張したりする人も多いらしく、その真偽は定かでないらしい。
だったら日本の宮内庁にあるのか? あったら確認すれば済むことなのに…と思うのだが、その辺はどうなってんの(?)っておいらのような凡人は思ったりする。

  それはともかくとして、「三国史記」や「三国遺事」、そしてこの「花郎世記」
前のページで書いているように、真平(チンピョン)王の三女とされる善花姫は「三国遺事」にしか登場してこない人物なのだが、それとは逆に「花郎世記」にしか登場しない人物がいる。
それがドラマ「善徳女王」の人気者「美室(ミシル)」だ。

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  「花郎世記」によれば、あのドラマ「善徳女王」に描かれているように魔性の女性で、花郎を掌握していた権力者となっている、そんな歴史を左右する人物が、他の歴史書には登場してこないというのは、善花姫以上にミステリアスな話しだと言える。
  自分のような凡人が、歴史家の間でも論争になっているものに割り込むような知識はないので、そんなことは置いといて、「花郎世記」に描かれているミシルがとっても興味深い、とは言っても歴史的な高尚な興味ではなく、凡人は凡人らしく(?)スキャンダラスな面がとっても面白い。

  ドラマで描かれていたように、才知と美貌の持ち主だという女性ミシル、生まれは540年代だと推測されている、これは弟のミセンが550年生まれとなっていることから推測されているらしい。
そして没年もよくわかっていないらしく、こちらも推測するよりなく、「花郎世記」に最後に登場している612年以降の数年らしいということだ。

  このミシルのほぼ7~80年の生涯での男性遍歴が凄い!(笑)
おいらにはこっちの方が凄く興味がある。
若かりし頃から熟女になるまでの間に記録されている相手が7人、その内訳は夫が一人に愛人が六人となっている。
  まず夫は「世宗公(セジョンゴン)」という人物で、六代目の風月主(プンウォルジュ)、早い話が花郎のリーダーです、ドラマを見ていた人はよくご存知と思います。

  そして愛人として名を連ねるのが、お馴染みの「斯多含公(サダハムゴン)、こちらは五代目の風月主です。
  次が、薛原郞(ソルファラン)、この人は七代目の風月主です。
ここまでは花郎の風月ですから、花郎のリーダーの五代目から七代目までを掌握してたってことで、ドラマの花郎を我が物にしていたってことが納得できますよねぇ。

   これからがもっと凄いんです。
 24代国王の「真興(チヌン)王」、ドラマのイ・スンジェお爺ちゃんですね。
 それから、「铜轮=銅輪太子(ドンリュンテジャ)」、この人は真興王の息子であり、真平王の父親なんだそうです。
 お次が、25代国王の「眞智(チンジ)王」、これがドラマでイム・ホが演じていたミシルに廃位された王様です。
 そしてなんと、ドラマではマヤ王妃ひとすじだった「眞平(チンピョン)王」、善徳女王の父親ですよ、この人もミシルさんと情を通じた仲だったんです、と、「花郎世記」ではなっとりますようで[わーい(嬉しい顔)]

   花郎のリーダーが三人、そして24代から26代の国王の皆様が、このミシルさんの魔性に呑み込まれたっていうか、毒牙にかかっていたというか、魅力の虜になっていたらしいってことで、これが本当ならドラマのように、新羅がミシルの手中にあったって不思議ではないですよねえ[ふらふら]と言うよか、そんなにも男を虜にする女性に一度お目にかかってみたいものだ[ハートたち(複数ハート)]


  話は少し変わりますが、ミシルの存在が書かれていた最後が612年で、善徳女王が即位したのが632年ですから、善徳女王にミシルが反乱を起こすなんてことはちょっとばかり考えられないわけです。
  実は、ドラマの中でミシルが起こしたとなっていた反乱は、父王である「眞平王」の時代の631年のこと(年代的にはドラマに合致してます)。
その反乱を起こしたのが、ドラマの中で、〝ミシルが命〟という感じで動いていたこの二人、
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「柒宿(チルスク)」と「石品(ソクプム)」だったらしいですよ、でもこの反乱は失敗に終わって、チルスクはすぐに処刑され、ソクプムは一旦は百済に逃げ延びたものの、妻子を迎えにきこりに変装して新羅に戻ったところを捕まってしまい、やはり処刑されたんだそうです。
ドラマのように壮絶な最期の死闘は実際にはなかったようです。

  それにしても、「花郎世記」に描かれたミシルと、実際に歴史に残る反乱なんかをうまく繋げて、しかも後のピダムの乱の主役もミシルの息子に仕立てたり、本当にうまくドラマにしていたものです、感心してしまいます。


  ということで、この「自由気ままな韓国一人旅」というタイトルのブログは終了させていただくことにしました。
ただ、ファイルの容量の制限が近いということと、最近はドラマの話題の方が中心になってきてますから、タイトルなどを一新させて、韓国の話題+αでの出直しを考えています。

  この「自由気ままな韓国一人旅」を読んでいただいた皆さん、ありがとうございました。
しばらく休んで新しいタイトルのブログでまたお会いしましょう![手(パー)]

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謎が多すぎて面白い! 「善徳女王」「天明王女」「善花姫」の三姉妹(?)

  月曜日の夕方の「善徳女王」はもうすぐ最終回を迎えます、そしてまた再び、毎 月~木曜の夕方に「薯童謠(ソドンヨ)」が始まったばかり。

  大昔に書きましたが、この「薯童謠(ソドンヨ)」の善花(ソンファ)姫は、善徳女王の末の妹と一部の記録ではされている人物です。
でもこの三姉妹の記録は実に様々で、実に面白い、その記録がある書物ごとで、こんなにも記録が異なる姉妹の存在は実に不思議だ。

  まず、父王の真平王の後をついだ「善徳女王」については、" 三国史記 "では真平王の長女として名前が記されているものの、" 花郎世記 "という記録では次女となっている。
ドラマ「善徳女王」は、全てがどうやらこの" 花郎世記 "をベースに、ドラマの脚本が書かれ展開していたようだ。
  そして、ドラマ「善徳女王」では双子の姉とされていた「天明王女」は、その真逆の記述がなされている。
" 三国史記 "では次女、" 花郎世記 "では長女となっている。

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  まあこの辺はどうってことはない、大昔の歴史ではよくあること、ましてや女性では細かな記載も無くこんがらがって伝わることもよくあることだから。

  ただ、この二人については、天明王女は息子の「金春秋(キム・チュンチュ)を産んだ後に亡くなっているだろうことは推察できるようだ。
王位を善徳女王が継いだことや、その善徳女王の亡き後には、従姉妹の「真徳女王」が継いでいることから、そう考えられても不思議ではない気がする。
天明王女が生きていれば、カリスマ性を持った善徳女王の後継者には、その姉妹である天明王女が真っ先に候補に挙がってもおかしくはないのだから。

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  そんなわけで、上の二人の姉妹は多少生まれの順があやふやになっているとはいえ、片や王位を継承し、片や後に国王となる金春秋の生母ということで、実際に存在していた姉妹なんだろうってことは、こんな素人でも推察ができる。

  分からないのが、三女の「善花姫」だ。
この三女の存在は、高麗の時代に書かれた" 三国遺事 "にだけ登場してくる。
この" 三国遺事 "は、上の善徳女王と天明王女については、真平王の娘と記されているだけで、長女だの次女だのという記述は無いのに、なぜかこの善花姫についてだけは、〝真平王の三番目の娘〟と記されているらしい。
  これからして不思議だ、「三国史記」と「三国遺事」は同じ高麗時代に書かれたものなのに、片方では存在する人物が、片方では存在していないということになり、しかも一方にははっきりと〝真平王の三番目の娘〟と書かれているのが、どうも怪しい(?)
ましてや一番古い記録書である「花郎世記」には影も形もない、この記録自体が本物・偽者の議論の的になっているものなので、真偽は定かでないとは言え、仮にも〝花郎〟と名の付く記録で王女様を記録から抹殺していることになる。
敵国の百済に嫁いだからと考えれば考えられなくもないが、やっぱり伝説上の架空の人物という気がしてならない。
ドラマ「善徳女王」はこの「花郎世記」をベースにしているのだから、当然三女の善花姫の存在が無かったわけです。

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  だけどですよ、もしこの「善花姫」が架空の人物となったら、現在放送中の「階伯(ケベク)」の義慈(ウィジャ)こと、後の義慈王はどこから湧いてきた(?)ってことになってしまう。

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  ところで、こうした歴史書の中で、もう一人なんやら出生やらが伝説に彩られてよく分からない人物がいるんですよ。
それが、義慈(ウィジャ)の父親である「武王」です。
法王の息子であったり、寡婦が産み落とした子であったり、龍の化身が産ませた子であったり様々(?)

  早い話が義慈王の両親ともが、伝説に色塗りされた、とってもわけが分からない人物なんですよねぇ。
つまり、あの有名な「薯童謠(ソドンヨ)」の主の二人ともが、歴史的な伝説の中で脚色されている人物だってことです。

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  そこでおいらの結論、この「薯童謠(ソドンヨ)」を中心にした義慈王の両親の伝説は、義慈王が作り出したものではなかろうか(?)って思うわけです。
正当な国王の後継者でなかった父親と、どこやらのわけの分からない女性との間で生まれたのが「義慈王」で、それを覆い隠すためにいろんな伝説を作り出した。
そう考えると、自分の母親にカリスマ性や悲劇性を持たせるために、新羅の王女で、父王と国境を越えた激しい恋に落ち、敵国である百済に嫁いで寂しさと苦労の中で「義慈王」を産んだ。
そうなりゃ血筋も敵国とはいえ王族の血統です、しかも激しい両親の愛の結晶として自分が存在しているわけですから… そしてそして、敵国の新羅の血を引きながらも、新羅と敵国として戦わなくてはならない…となったら、カリスマ性も民衆の同情心を得るにも充分じゃないですか(?) どうですかぁ???? おいらの想像は[わーい(嬉しい顔)]

  ちなみに、2009年に発見された 「彌勒寺址石塔」には、武王の妃は「沙宅(サテク)妃」の名前しか出てきてないそうです。

  ところで、ドラマ「階伯」の中で、ケベクに思いを寄せている「恩古(ウンゴ)」が義慈王の妃になってますが、ドラマの上ではどんないきさつでそうなるんでしょうね(?)、ちょっとこれからが楽しみです。

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