「板門店ツアー」 『ポプラ事件』が示す戦争と隣り合わせの〝軍事境界線〟
今回の正味四日間という旅行中のたった3分、それだけの見学でのことで3ページも使っています。
普段の韓国時代劇やその撮影地の話題ではないので、さすがに普段よりはアクセスも減ってきてますが、こういった現実をひっくるめた韓国にも興味がありますので、もうちょっとお付き合いください。
観光客用の展望台からの眺望、その中に「ポプラ事件」の現場というのがあります。
自分はまったく知りませんでした。
韓国と北朝鮮との関係を凝縮させたような事件なのですが、こういった悲劇の出来事や事件を経て、現在の韓国側からの「板門店」見学での、多すぎるくらいの規制へと繋がっているのだというのが理解もできます。
1953年といいますから、かなり古い話ではあります、ところがこういう緊迫した地域においては決して古い話ではなく、いつまた再現されるか知れないという現実でもあるわけです。
国連(韓国)側にある大きなポプラの木が茂りすぎて、監視の妨げになるということで、国連兵士がその木の剪定をしていたところ、北朝鮮側の兵士がクレームをつけたそうです。
「そんなことをやるなんて聞いてないよー!」
「何こいてんねん、ちゃんと伝えておいただろ!」
ほんの些細なことなんですけどね、「伝えた」 「いや聞いてない」
これが発端で殴り合いの喧嘩にまで発展し、木の伐採中ですからね、悪いことに斧という本来は武器ではないものが存在してました。
その斧を奪い手にしたのが北朝鮮兵、ということで、国連側といっても米兵なんですが、二人の命を奪うという結果を招いてしまいました。
こういう緊迫した地域では、ほんの些細なことでも大事になってしまうという、本当に典型のような事件です。
ですから、こんな些細なことすら起こらないよう、国連側は細心の注意を怠らない現在の姿へと繋がっているようです。
「Wikipedia」に当時の写真があります、
結局はこのポプラの木は、ただそこに生えていただけなのに、米軍によって切り倒されてしまいますが、その当時の幹の太さを土台に碑が築かれました。
この当時はあわやまた大戦争?という寸前だったそうですし、この一本のポプラの木を切り倒すだけに、大掛かりな軍備を配置して行ったらしいですし、「軍事境界線」というこの地域は、我々のような一般の人間には想像もできないような場所らしいです。
ですから、観光客の一人の馬鹿な行動が、命のやりとりという事件にも、そして、大げさな見方をすれば、戦争の発端にもなり得るという場所でもあるってことです、そう考えるとちょっと怖いですけどね。
さあて、観光客用の展望台の利用時間は、画像の撮影時間から見ると、〝3分〟ほどに決められているようです。
引率の兵士君からガイドさんに催促が入ります。
「みなさーん、もう時間だそうですから、最後を写してバスに戻ってください」
ということで、バスに乗り込んでまた移動です。
その途中でバスが停止したのが、その「ポプラ事件」の現場。
そしてそこから奥に続いているのが、有名な「帰らざる橋」です。
捕虜が「北」と「南」を選んでその橋を渡り、一旦決めて渡ったら二度と戻ることは許されなかったといいます。
迷ったでしょうねえ、話だけを聞いていても、過酷な運命の選択を迫られた捕虜の気持ちが切ないです。
でもそんなひどい現実がこの地であった、それは紛れも無い事実だということ、それらを戦争がもたらしたということです。
最初に国連のバスに乗り換えた「キャンプ・ボニパス」の建物に戻り、トイレやらお土産もいろいろありますから、買った人も多いようです。
ポストカードはありましたが、写真集のようなものはありませんでしたから、自分は何も買わず…でしたが。
そして、ツアーのバスに乗り換えてソウルへ… ソウルのロッテ前には17時20分くらいの着だったと思います。
普段の韓国時代劇やその撮影地の話題ではないので、さすがに普段よりはアクセスも減ってきてますが、こういった現実をひっくるめた韓国にも興味がありますので、もうちょっとお付き合いください。
観光客用の展望台からの眺望、その中に「ポプラ事件」の現場というのがあります。
自分はまったく知りませんでした。
韓国と北朝鮮との関係を凝縮させたような事件なのですが、こういった悲劇の出来事や事件を経て、現在の韓国側からの「板門店」見学での、多すぎるくらいの規制へと繋がっているのだというのが理解もできます。
1953年といいますから、かなり古い話ではあります、ところがこういう緊迫した地域においては決して古い話ではなく、いつまた再現されるか知れないという現実でもあるわけです。
国連(韓国)側にある大きなポプラの木が茂りすぎて、監視の妨げになるということで、国連兵士がその木の剪定をしていたところ、北朝鮮側の兵士がクレームをつけたそうです。
「そんなことをやるなんて聞いてないよー!」
「何こいてんねん、ちゃんと伝えておいただろ!」
ほんの些細なことなんですけどね、「伝えた」 「いや聞いてない」
これが発端で殴り合いの喧嘩にまで発展し、木の伐採中ですからね、悪いことに斧という本来は武器ではないものが存在してました。
その斧を奪い手にしたのが北朝鮮兵、ということで、国連側といっても米兵なんですが、二人の命を奪うという結果を招いてしまいました。
こういう緊迫した地域では、ほんの些細なことでも大事になってしまうという、本当に典型のような事件です。
ですから、こんな些細なことすら起こらないよう、国連側は細心の注意を怠らない現在の姿へと繋がっているようです。
「Wikipedia」に当時の写真があります、
結局はこのポプラの木は、ただそこに生えていただけなのに、米軍によって切り倒されてしまいますが、その当時の幹の太さを土台に碑が築かれました。
この当時はあわやまた大戦争?という寸前だったそうですし、この一本のポプラの木を切り倒すだけに、大掛かりな軍備を配置して行ったらしいですし、「軍事境界線」というこの地域は、我々のような一般の人間には想像もできないような場所らしいです。
ですから、観光客の一人の馬鹿な行動が、命のやりとりという事件にも、そして、大げさな見方をすれば、戦争の発端にもなり得るという場所でもあるってことです、そう考えるとちょっと怖いですけどね。
さあて、観光客用の展望台の利用時間は、画像の撮影時間から見ると、〝3分〟ほどに決められているようです。
引率の兵士君からガイドさんに催促が入ります。
「みなさーん、もう時間だそうですから、最後を写してバスに戻ってください」
ということで、バスに乗り込んでまた移動です。
その途中でバスが停止したのが、その「ポプラ事件」の現場。
そしてそこから奥に続いているのが、有名な「帰らざる橋」です。
捕虜が「北」と「南」を選んでその橋を渡り、一旦決めて渡ったら二度と戻ることは許されなかったといいます。
迷ったでしょうねえ、話だけを聞いていても、過酷な運命の選択を迫られた捕虜の気持ちが切ないです。
でもそんなひどい現実がこの地であった、それは紛れも無い事実だということ、それらを戦争がもたらしたということです。
最初に国連のバスに乗り換えた「キャンプ・ボニパス」の建物に戻り、トイレやらお土産もいろいろありますから、買った人も多いようです。
ポストカードはありましたが、写真集のようなものはありませんでしたから、自分は何も買わず…でしたが。
そして、ツアーのバスに乗り換えてソウルへ… ソウルのロッテ前には17時20分くらいの着だったと思います。