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「金 春秋(キム・チュンチュ)」こと「武烈(ムヨル)王」の息子と子孫の墓

  武烈(ムヨル)王陵には、見る角度で数が違って見える古墳群が同居してますから、広いのなんのって一周したら疲れちゃうよということで、数が四つなんだって確認できたところで引き返すことにしました。

  入り口の門の脇にあるトイレで用を足して(ここまで書く必要はないですが…)、またバス停に戻ろうかと思ったら、アレッ、道路を挟んだお向かいにも古墳があります。
まだバスまでの時間はありそうだしということで、ちょいとばかし寄って行くことにしました。
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  誰の墓なんだか自分は知らないんですよね、武烈王の墓の近くにあるんだからお身内かな(?)って感じだけです。

  まず奥の方に墓とはちょっと別の角度に楼閣が見えますからまずそちらへ。
その楼閣にはまたまた〝亀さん〟あの「亀趺(きふ)」が入ってました。
でもこちらの亀さんは何も背負っていません、「やれやれ楽になった」って思ってんだか、それとも守るべきものを失くしちゃって悲しんでんだかわかりませんが、この亀が本来背負っていた石碑は、断片となって「慶州博物館」にあるんだそうです。

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  そんな亀趺(きふ)といい、武烈王の墓によく似てると思ったら、この墓は武烈王の次男である「金 仁問(キム・インムン)」という人の墓なんだそうです。

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  金 仁問って聞いたことがあるぞって思ったら、それもそのはずで、あの武烈王陵碑の文字を書いたとされる人です。
  またまたドラマになぞらえれば、金 春秋(キム・チュンチュ)の次男ってことは、天明(チョンミョン)王女の孫ってことになるんだ、そう考えるとまた別の意味合いが出てくるから不思議です(笑)
おいらの頭の中には韓国時代劇しかないんかい!って[ふらふら]
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  とにかくこの金 仁問はお父さんの武烈王が大好きか尊敬してたんでしょうか?こんな近くに墓があるってことは?
もしかしら、兄である「文武(ムンム)王」には墓が無くこの地に葬られていないから、自分くらいはっていう気持ちがあったのかもしれませんね。

  「金 春秋」こと「武烈王」の長男で、30代の王であり、この墓の「金 仁問」の兄である「文武王」は、死後の弔いも質素にし、墳墓も築く必要はないと遺言して、亡くなった後は竜になったといわれています。
ですから、歴代の王のようなこうした墓は築かれていないんだそうです。

  では、ここの古墳の話に戻ります。
その金 仁問の墓の隣には少しこじんまりした墓が並んでいます。
「金 陽(キムヤン)」という人の墓だそうで、金 春秋こと武烈王にとっては会うこともなかったろう9代目の孫にあたるお方だというのですが、こういう墓って不思議な系列がありますよね、直接に近い系列の人物の墓が並んでいるわけではないんですよね。

  ですから自分なんかはこう考えます。
金 仁問は父親の武烈王を、そしてその遥か子孫の金 陽は武烈王や金 仁問にそれぞれが生前に尊敬の念を抱いていたのかもしれないと。
金 春秋こと武烈王は、唐や倭国、そして高句麗と盛んに外交を行った人物として知られていますし、金 仁問も唐や新羅との外交にあたった人物、金 陽も統一新羅や唐と和平交渉にあたった人物だということで、外交に手腕を発揮した共通点が見えたりするな、そんな風に思ったりするのです、あくまで自分の印象なんですが。
そう思えば、死後もご先祖と子孫達が外交話に花を咲かせてるんじゃないかと…。

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  ところで現実問題です。
この墓でのんびりしずきたよ。
ここを見ている間に次の61番バスが行ってしまいました、ということで、そのまた次の60番バスをのんびり待つことになってしまいました。
60番、61番ともに1時間に1本ですから、自分が乗ってきた60番バスの1時間後のバスってことになるわけです。

  こうして次の60番バスに乗って、慶州駅へ行き、「善徳女王陵」へと旅行は続いたのです。

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