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「王女の男」の時代背景から  「端宗(魯山君)」の妻「定順王后」は、60年以上も冥福を祈るだけの哀しい〝未亡人〟

  ソウルの都心にその姿を甦らせた「清渓川(チョンゲチョン)」、散策というよりも、ほんの少し歩いてみたのは三度ばかりあります。
ここって後から後から、こういうものがあるとかって知って、「ヘェー、そうなんだ」と改めて思うことがよくあります。

  ここに架かる橋にもこんな話が残っているなんてことは、今回になって初めて知りました。
いや、本当は、きっと以前にも観光の記事で目にしていたのかもしれない、だけど、こういうのは決まってざっと読む程度ですから、こうして改めて興味を持って調べないと意識なんてしないものです。

  この「清渓川」に架かる橋のひとつに「永渡橋(ヨンドギョ)」という橋があるそうです。
きっと自分も実際に目にしたことがあるのかもしれませんが、「清渓川」の畔を歩く際に上に架かっている橋のひとつですから、これまでそんな橋をまったく意識したことなんてありません。
しかも、昔ながらの風情を残すような橋とかいうのなら、多少は風景のひとつとして目にもとまるのでしょうが、普通の橋のひとつでは意識しろという方が無理というものです。

  この「清渓川」に架かる橋のひとつにすぎなかった「永渡橋(ヨンドギョ)」が、悲劇の幼き国王「端宗(タンジョン)」にまつまる名前が付けられていた橋だったなんて知りませんでした。
っていうか、これまで「端宗」自身を知ろうとしたことがありませんでしたから、当然のことですけどね、こうやってドラマで興味を持たないと調べない、韓国知識を増やすもドラマ次第という困った人間です(笑)

  さてその「「永渡橋(ヨンドギョ)」、流刑になる端宗とその妻である「定順王后(チョンスンワンフ)」はここで別れたのだと言われます。
流刑になる「端宗」がこの橋を渡り、そのたもとで涙ながらに見送るしかない「定順王后」、想像するとドラマの感動シーンにもなりそうな絵です。
そして「端宗」は流刑地である寧越(ヨンウォル)でそのまま賜死しますから、永遠にこの橋をまた渡って戻ることはなかったわけです。

  そこで付いた名前が「永渡橋」 〝永久に渡る橋〟という意味なんだということです。
でもね、〝永久に渡る橋〟って自分としては納得がいかない、〝永遠に渡ったままの橋〟ではないかい(?)[わーい(嬉しい顔)]
そんなこたあどうでもいいとして、「端宗」は二度とこの橋を再び渡って「定順王后」の元へ戻ることはなかったんです。
この時に妃である「定順王后」は16歳か17歳、そして、「端宗」が賜死したのがその年の10月ですから、いわゆる〝未亡人〟になってしまったのは多分17歳ということになります。
  (注: 満年齢で書いていますので、数え年齢の記録とは異なる場合があります)
  ちなみに、この「定順王后」は生まれた年は1440年ですが月日は定かではないんです。
まだ13歳か14歳で「端宗」の嫁さんになって、17歳で未亡人です、幸せな結婚生活を何十年も(?)続けてみえるえりなーさんやガリィママさん!想像できますかぁ?

「永渡橋」
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  この後がお気の毒なんです。
  端宗が送られた寧越(ヨンウォル)の方角が見える東大門近くに草庵を築いて、侍女三人と端宗の冥福を祈りながら貧しい暮らしを始めたんだそうです。
そして朝夕と欠かさずその東にある「東望峰(ドンマンボン)~鍾路区(チョンノグ)崇仁洞(スンインドン)」に登っては、寧越の方を眺めて冥福を祈るのを忘れなかったと言われます、この場所の名前もそれにちなんでいるそうです。
そんな哀れな姿は近くの民たちの同情を誘い、その生活を助けたなどということも書かれていたりします。
それを見兼ねた朝廷が住まいを建てて援助しようとしたりしますが、定順王后は絶対にそれを拒んで、興仁門(フンインムン))近くにある東望峰(ドンマンボン)の西の下にあった「浄業院」でその後亡くなるまで過ごしたそうです。
もちろん、東望峰に登り端宗の冥福を祈るのも死ぬまで続けられたと伝えられています。

毎日冥福を祈ったという「東望峰」
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  4年にも満たない端宗との夫婦生活です、しかも10代で未亡人になり、亡くなったのが81歳か82歳です、それまでの64年余りを端宗に捧げ続けてその冥福を祈って生きていたなんて、本当に何のための人生だったんだか[もうやだ~(悲しい顔)]
なんでまたそんなに長生きしちゃったんでしょうねえ、それが余計に気の毒な気がします。

  「定順王后」が暮らしたという「浄業院」の名残りは、現在の「青龍寺(チョンリョンサ)~ 鍾路区(チョンノグ)崇仁洞(スンインドン)」の脇に、碑閣のみがあるだけのようです。
この「青龍寺」は、端宗と定順王后が最後の夜を共にした場所だとも言われています(?)し、暮らした「浄業院」自体がここだと書かれたものもあります(?)

「端宗」と「定順王后」が最後を過ごしたと言われる「青龍寺の雨花楼」
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  そしてそこにある碑閣を築いたのが英祖王、そして墓石や懸け板などの文字も英祖王が書いたものだそうです。
さすがは「トンイ」の息子です、情に厚い一面が見られますよねえ、しかも「涙無しでは書けない」などという文字もあるそうで、やっぱり暖かい人間だったのかもしれません、息子は死なせてしまいましたが…。

「浄業院碑閣」
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「英祖」の書とされるもの
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  ただ、この「定順王后」が暮らしたとされる「浄業院」は、尼寺で行き場の無い後宮たちが余生を過ごしたお寺の「正業院」と多くはなっていますが、「定順王后」の「浄業院」とその「正業院」とがごちゃ混ぜになっているようでよく分かりません。
世祖の即位三年目に、当時は廃止されていた、子供の無い後宮を集めた「正業院」というのを復活させたのは確かなようで、ただそれは昌徳宮の近くの城内にあったらしいということですから、どうやら哀れな宮廷女性が暮らしたお寺という共通点で一緒にされている感が強いみたいです。
「英祖」が築いた「浄業院」の碑閣そのものも、本来の「正業院」ではなく、定順王后が暮らしたとされる伝説的な場所に建てられたようです、ただ 自分は歴史家でもなんでもありませんので、とにかく「浄業院」と「正業院」そして「青龍寺」でこんがらがってます[ちっ(怒った顔)]

  なんにしても、10代で未亡人になり、剃髪して尼僧になり、たった4年弱というだけの夫「端宗」の冥福を祈る、それだけで64年余りを生きていた女性、端宗以上に哀れだと思います、妃候補に選ばれなかったらもっと別の人生があったはずですから。

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「王女の男」の時代背景から  「端宗(魯山君)」と『子規楼』の切ない話し

  いよいよ、今度の日曜から「王女の男」が始まります。
キム・スンユのこととか、フィクションでの部分は「ドラマだねえ」って思いながら、これから毎週楽しんでいけばいいのですが、自分としてはやっぱりノンフィクションの部分での歴史も気になるところです。
  中でも、若干16歳という、まだ少年の時期に短い生涯を終えた、いえ、奪われた「端宗(タンジョン)」はとっても興味深い人物です。
世子から国王へという、まだ少年とはいえ正当な後継者でありながら、理不尽な叔父によって奪われた人生、その哀れな生涯は計り知れないものがあります。
ですから、少しばかりこの「端宗」のことを書いてみることにしました。

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  まだ11歳で父王が亡くなり国王となった「端宗」、幼い国王の場合は周囲の力が強ければなんとかなるものです。
ところが、この「端宗」の場合はキム・ジョンソを始めとして、決して補佐する力が弱すぎたわけでもない、ただ、本来なら補佐してくれるべき叔父の権力欲が尋常ではなかったというのが、本当に不運だったとしか言いようがありません。
  「首陽大君(スヤンテグン)」と廃位された我が(?)「光海君(クァンヘグン)」の違いってありますか?
本来の後継者を殺戮と陰謀で抹殺したという点では、むしろ「首陽大君」の方が悪どい気がするのですが、これが歴史の上での勝者と敗者の違いなんでしょうね、歴史は時々の勝者が作り出すものの典型のような気がします。


  さて、「端宗」ですが、叔父に尻を蹴飛ばされて追い出され、踏みにじられて(なんちゅう例えやねん)、1457年 6月に流刑の身となりますが、元々は「清冷浦(チョンリョンポ)」という、現在の江原道(カンウォンド)寧越(ヨンウォル)郡の南漢江上流地域でした。
ところが、大洪水で清冷浦一帯が浸水してしまったために、寧越府の客舎「観風軒(クァンプンクォン)」に移ります。
そして、降格され魯山君(ノサングン)」となった「端宗」の最期、毒薬での賜死(しし)の場所もこの「観風軒」ということになってしまいました、それが1457年12月24日(旧暦)のことです。

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  この「東軒」である客舎「観風軒」から500メートルほどの場所に「梅竹楼(メズックル)という楼閣があります。
寧越(ヨンウォル)に移って来てからの魯山君は、よくこの楼閣にいたそうです。
そして都を思い、生き別れた妻を思い、何よりも自分の運命をどんなにか嘆き悲しんだことか、ましてやまだ少年という身では耐え難い思いでいたと思います。

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  この「梅竹楼」でいくつかの詩を作ったと言われています、それが「莊陵(チャンルン)誌」に刻まれた「端宗子規詩」です。
そして、日本でもドラマなどで知られるその詩のひとつがこれです。

  『一自寃禽出帝宮   孤身隻影碧山中   假面夜夜眠無假   窮恨年年恨不窮
      聲斷曉岑殘月白   血流春谷洛花紅
               天聲尙未聞哀訴   何奈愁人耳獨聽』
  なんのこっちゃねん!ですよね、これの韓国の方の訳詩をまた自分なりの表現に置き換えて、日本語の詩にしてみました。

  『無念の思いを胸に 宮を追われし一羽の鳥   
  孤独なその身に慕う影も無く ただ彷徨う碧(あお)い山の中

     幾夜訪れども 安らぐ眠りはかなわず
     幾年過ぎれども 我がこの悔しき思いは果て無し

    ホトトギスの声が途絶えし暁の峰に 月の明かりは白く
               血を撒いたかの如く散る花のみが 赤き春の谷 

  天に我が声は聞こえず 我が哀しき願いは届かぬ
         何故に愁い多き人の耳さえ このように聞こえしものを 

  これが十代の少年の詩? そうは思えません、そして何とも切ないです。
  万物を見下ろす天には耳が無く何も聞こえないのですか? こんなに哀しく切なる声も聞いてもらえないなんて…、愁いばかりの人間でしかない自分の耳でさえこんなに聞こえるのに…。
孤独と悔しさに満ちたこの自分をなんとかしたい、だけど何もできない、そんなジレンマがヒシヒシと伝わってきそうです。
  この魯山君がよく訪れていた「梅竹楼」は、ホトトギスの鳴き声がよく聞かれたんだそうです。
ホトトギスは〝鳴いて血を吐く〟と言われます。
実際に血を吐くわけではありませんが、口の中が赤いことや鳴き声から故事でそんな言い伝えがあるようです。
そんなホトトギスを、苦しみの中であえぐ自分と重ね合わせていたのかもしれません。

  魯山君の死後、この「梅竹楼」は「子規楼」と呼ばれるようになりました。
〝子規〟はホトトギスの別名です、寧越の人々はこの楼閣に、残酷な運命に翻弄された「魯山君」の姿を偲んだのだと思います、ホトトギスの鳴き声とともに…。

  魯山君の話はまだもう少し続きます。

「子規楼」と「梅竹楼」の二枚の懸け板
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この際だから行っておきたい! 「王の男」から「王女の男」まで、 韓国時代劇でお馴染みの あの撮影セット 兼 テーマパーク

  今年の韓国は「全羅北道(チョルラプクト) 訪問の年」なんだそうです。
最近の韓国ではもう聞き慣れた「○○訪問の年」と銘打った観光PRですから、別に特別な関心を持つようなこともないのですが、この「全羅北道」は見応えのある観光地はいくつもあります。
自分もこの地域では「全州(チョンジュ)」を訪れました、そして、自分が撮影地という目的で初めて訪れた「高敞(コチャン)」もここ全羅北道にあります。
  韓国の西側に位置した地域で、鉄道などの交通面なども充実していますから、東側に比べるとソウルからのアクセスも比較的に楽な地域ではあります。
とは言っても、KTXを利用できてアクセスし易い場所もあれば、やはりソウルからバスで3時間以上はかかる場所もあるわけです。

  その全羅北道にある「扶安(プアン)郡」、西側の海に面していて、ちょうど高敞郡の北側にあるのですから、自分としては近くまで行っていながらまだ未開の(?)地となっている中途半端な場所です。
そんな観光ルートとしては中途半端な場所に、自分としては以前から気になっていたテーマパークがあります。
そのテーマパークの名は「扶安映像テーマパーク」

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  以前の「推奴(チュノ)」の撮影地などでちょくちょく名前は出てきていましたが、なぜだか後回しになってしまってまだ行ったことがないという、〝韓国の撮影地おバカ〟の自分としては、「ここへ行ってないというのはちょっと片手落ち、名折れじゃないか」と思っている場所なんです。
  ただ自分の場合は、滞在期間の少ない数日のうちに多くを見たいという欲張りな人間なので、その目的地の近所に別の名所があればそれも見たい、次の目的地に移動ができればしておきたい、そんなふうに思ってしまって、これまでは二の足を踏んでいました。
でもまあ、「全羅北道訪問の年」でもあるし(笑)、しかも最近話題の「王女の男」や「根の深い木」も関係してくるとなれば、ちょっとばかり放ってはおけないという気持ちにもなってきています[わーい(嬉しい顔)]

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  さて、この「扶安映像テーマパーク」、こうした撮影のセットを兼ねたテーマパークとして2005年の夏にオープンしました。
2万7千坪という土地の中に専門家の考証のもと、宮廷、工房(昔の土木担当官庁)、漢方村、両班の屋敷、市場街などが築かれ、中でも宮廷の建物は、「景福宮」や「昌徳宮」などの建物を3分の2の大きさに縮小して建てられたという優れものとしてスタートしました。
  画像などから見た印象としては、「聞慶KBS撮影所」の雰囲気に似ているような気がします。
なんでも、 完工に2年半をかけ、70億ウォン(当時の約7億6千万円)を、全羅北道と扶安郡がそれぞれ20億ウォン、施設運営者であるKBSアートビジョンが30億ウォンを負担したという、馬鹿にならない金額をかけた施設なんです。
  当時は、『太陽人李済馬(テヤンイン・イジェマ)』、『不滅の李舜臣(イ・スンシン)』、そして映画の『王の男』を撮影していたという話題の撮影セットでもあったわけです。

映画「王の男」
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  それから時が流れはしたものの、撮影セットとしての役割は今でも健在で、『イ・サン』、『一枝梅(イルジメ)』、『ファン・ジニ』、『快刀ホンギルドン』、『推奴』、『タムナ』 などなど、日本ではお馴染みのそうそうたるタイトルが並ぶという、ここを利用して撮影された韓国時代劇は数えきれないほど。

  そしてここからが肝心なんです(笑)
もちろんのこと昨年に韓国で話題になり、日本でもこれから人気ドラマに数えられるであろう、『王女の男』や『根の深い木』の重要な撮影地にもなっているんです。
ここ最近では映画の『私は王である』なんてのが撮影に使っていたようです。

  画像を見れば何度が見かけている場所のような、そんな気がしませんか?
ここ「扶安映像テーマパーク」の特徴は、広い敷地の中にデンと構えたこの王宮の姿です。
広い空間の中にひとつだけあるようにも見えるこの王宮、多分何度か目にしていると思います。

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  もうひとつここの特徴で分かりやすいのが、こういった撮影セットは外観の撮影が殆どで、内部はスタジオというのが多いのですが、ここのこの内部にある場所は、いくつものドラマや映画で目にしているはずです。
まるで中国の宮廷のように、玉座が上にドンッと構えている光景、そうですよ、最近も見ましたね、「王女の男」の特番でも登場してましたから、ドラマが始まったら嫌でも目に付くと思います。
この玉座のあるシーンを含めた前後の宮廷シーンのあたりは、きっとこの「扶安映像テーマパーク」のはずです。

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  古くは「王の男」から今度は「王女の男」まで、老舗の撮影セットを兼ねた時代テーマパークである「扶安映像テーマパーク」、「聞慶KBS撮影所」ともども〝KBS〟の撮影セットが、熱く注目されそうなこの頃なんです。
しかし、上にも書きましたが、2005年に築かれていますからいつその姿を変えるかしれません、今ある姿を、この再びの注目期に見ておくのもいいかもしれないと考えている次第です。
  この「扶安」へはソウルからの直通バスで3時間半くらいですが、自分が行くとしたら、またKTXを使って「大田」拠点か「井邑」からのアクセスも考えたいと思っています。

   韓国観光公社
     http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TE/TE_JA_7_1_1.jsp?cid=282047
   扶安郡紹介サイト
     http://www.buan.go.kr/jap/01intro/intro_01.jsp

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ドラマ「王女の男」のモチーフには朝鮮時代の二つの〝都市伝説〟(?)

  〝都市伝説〟昔からこんな言葉がありましたっけ?
自分は最近になってよく耳にする言葉のひとつのような気がしていますが、人から人へコソコソッと言葉だけで伝わる風聞のようなもの、その真実は定かではない内容なのに、何か人から聞けばまたそれを誰かに伝えたくなるような話ってよくありますよね。
そこにはまったくの根拠もないのに、「こんなことがあり得るかも(?)」「こんなことがあったら面白いかも(?)」 そんな気持ちが作用して、中には元々の話しに尾ひれが付いたり、ちょっと加工が加えられたりしながらも、まるでそれが真実かのようにまことしやかに伝えられる話しというのはよくあるもので、なぜかこうした会話の中だけの世界には不思議な興味をそそられるものです。

  「ねえねえ、こんな話し知ってる?」 「おい、こんな噂があるけど知ってるか?」
もう誰から聞いた話かも分からないのに、どこまでが真実でどこからが創作なのかも知れないのに、「えーっ、知らなーい」 「うそー!本当に(?)」と、どんどん口頭で伝わる話、それが大きく広がり後々まで残れば過去の伝説となり、いつか忘れ去られていけば一時の都市伝説で終わる。

  いつの時代も、どこのお国でも、やはり人間の興味なんて変わりはないようで、その〝都市伝説〟の残された片鱗から生まれたドラマが「王女の男」のようです。


  朝鮮時代、世宗(セジョン)国王が以前から不安視していたものが、とうとう現実となってしまった「癸酉靖難(ケユジョンナン)」というクーデター。
その血の繋がった肉親どうしの権力争いの中で、巻き込まれてしまった多くの人間の血が流されました。
その中心となって命を落とすことになった人物が「キム・ジョンソ」でした。
  犠牲者となったキム・ジョンソには本妻との間に、キム・スンギュ、キム・スンビョク、キム・スンユという三人の息子がいたというのが記録に残っています。
ただ、上の二人はこのクーデターの犠牲になった記録が残っていますが、三男のキム・スンユについては「癸酉靖難(ケユジョンナン)」当時の記録が無いようです。

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  一方のクーデターの首謀者である「首陽大君(スヤンテグン)」には、不思議なことに記録にある娘「懿淑(ウィスク)公主」、ドラマの中では次女のイ・セジョンの上に、記録にはない長女がいた可能性が見え隠れしています。
『世宗実録112巻』という記録によると、 1446年当時、首陽大君は「1男2女」を授かっていたというようなことが書かれているそうで、それが「宜逞(ウィリョン)公主」、ドラマの主人公のイ・セリョンの存在ということになります。

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  犠牲者の方の三男「キム・スンユ」には犠牲になったという記録がなく、一方の首謀者の方には、きちんと記録には残されていない長女の存在があった可能性がある、ここが都市伝説を生むキーポイントとなりそうです。

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  さて、このクーデターの犠牲となったキム・ジョンソ一族の本貫・順天(スンチョン)には『順天金氏大同譜(スンチョン・キムシ・デドンボ)』というものが残されているそうです。
その中にあった民衆の間で広まった噂話のようなものを集め、後にひとつにまとめあげたもの、言ってみれば〝都市伝説集〟のような「童子民説」の中に、こんなひとつの話しが残されているようです。

  『おみゃあさん、知っとりゃあす? 首陽大君様の上の娘さんと、キム・ジョンソ様の三男坊が、あのクーデターの後でかろうじて生き残りゃあてよう、首陽大君様の追っ手を避けて逃げのびてござったんだと、そんで南漢山の麓あたりでひっそり身分を隠しながら暮らしてみえたらしいで。
そんでもよう、生活の苦労は多少しやあたものの、二人で死ぬまで仲よう幸せに暮らしとりゃあたげなに』
 『ほんとにきゃぁ?そりゃよかったなも、悲惨な事件だったで、ちょこっとでも幸せに暮らしてみえた方がおりゃあたなら、そりゃ、ええ話しだわなも』

  読みづらい?すいません_(._.)_ 風聞の都市伝説らしく(?)名古屋弁の会話風に脚色してみました(笑)
でもお解かりですね? きちんとした記録には残されていないドラマの基本となるような話が、順天の〝都市伝説〟として、過去にまことしやかに語り継がれていたということになります。

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  一方、似たような民衆の間で語り継がれていたものを書き綴った書物、『錦渓筆談(クムゲピルダム)』というものがあり、首陽大君の幻の長女が父親の野心に嫌気がさして、父娘の間がうまくいかなくなり、それを心配した母親が乳母と一緒に娘を遠くへ逃がしてかくまうことにした。
その先で偶然にも、「癸酉靖難(ケユジョンナン)」の混乱から逃げ延びてきたキム・ジョンソの孫という男性と出会い、縁を結んで洞窟のような場所で共に暮らしたというようなことが書かれているそうです。
そのキム・ジョンソの孫を三男のキム・スンユに置き換えれば……ということになります[手(チョキ)]
この『錦渓筆談』については多くのサイトで書かれていますし、ご存知の方も多いかもしれませんが、こちらのサイトの方がうまく解釈して解説されていますので、ご紹介しておきます、リンクしませんので、URLをコピーして貼り付けて飛んでください。
  
  http://韓国の歴史.com/oujyonootoko/%E7%8E%8B%E5%A5%B3%E3%81%AE%E7%94%B7%E3%81%AE%E5%8E%9F%E4%BD%9C%E3%81%AF%E9%8C%A6%E6%BA%AA%E7%AD%86%E8%AB%87%EF%BC%9F/

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  人の口から口へとまことしやかに伝わっていた二つの〝都市伝説〟、これを合体させれば…あーら不思議、ドラマのモチーフができちゃったよ[わーい(嬉しい顔)] ってことですね。
ただ、これは韓国のものを直訳したり、日本の方がそれなりに理解して書かれていたものを、自分なりに解釈して独自の世界でまとめていますので、間違った解釈があるかもしれませんのでご了承願います。

  ただひとつ真実は、「信じるか信じないかはあなた次第」という〝都市伝説〟は、いつの世にもどこの国にも存在して、それにきちんとした脚色をし立派なストーリーとして仕上げれば、こんなにもすばらしいドラマにもできるということです。

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【韓ドラ雑記】 古い話しですが、「ホ・ジュン」の中のあの人が「朱蒙(チュモン)」のテソで、あの人がこの人?

  また長ったらしいタイトルを付けました、最近本当にタイトルが長いですよねぇ、ちょっとお馬鹿になって(笑)いいタイトルが浮かばないってんで、思いつくそのままをタイトルにしてしまっている安易な今日この頃です[わーい(嬉しい顔)]

  さて、光海君(クァンヘグン)といえば朝鮮王朝の暴君と言われる王様で、燕山君(ヨンサングン)と並んで悪者にされてしまっている国王です。
廃位されてしまってますから、そのお墓も〝陵〟ではなくって〝墓〟となってしまっている哀れな人です。
燕山君はともかくとして、光海君は自分にはどうしてもそんな悪者には思えないんですよね。

  前々回にホ・ギュンの話題でこの光海君の名前が出てきた時に、ちょっと懐かしく思えました。
それは自分が朝鮮王朝の王族として、初めて名前を覚えた人物だったからです。
かのハングル(訓民正音)制定の世宗(セジョン)大王よりも、自分が先に名前を知ったのがこの光海君だったんです。
  もちろんそこにはドラマの影響があります、それが「ホ・ジュン~宮廷医官への道」です。
ところが、自分の順番としては、このドラマの前に「チャングムの誓い」を見ています、当然そこにはあの料理をよく食らう国王さんが出てらっしゃいましたが、名前なんてどうでもよかったんですね、〝チャングムの王様〟それでしかなくって、それが11代国王の中宗(チュンジョン)だと知ったのは、もっともっと後のことです。

  「ホ・ジュン」のドラマの中の光海君はどこか寂しげで、ホ・ジュンを師のように仰ぎ、父親のように慕い信頼していました。
毒になる薬が含まれていようが、ホ・ジュンを信用しているからと、皆の制止もきかずにその薬を飲むなんていうのは、本当にいいシーンでした。

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  主役のホ・ジュンが幼い頃からその成長を見守り、光海君はホ・ジュンの誠実な生き様を手本にして育ったのですから、さぞや立派な王様になったんだろうと信じてました。
現にドラマの中の終わりでは王様になったのですから、どんな王様なんだろうと当時調べてみたのです。
韓国の歴史上の人物で、自分が初めて『ウィキペディア』で調べたのもこの光海君でした。

  そうしたら、なんと!そこには信じられない文字が並んでるじゃないですか[もうやだ~(悲しい顔)]
    暴君・廃位・流刑、なんのこっちゃです。
さぞや名君の誉れ高い国王と思いきや、真逆の王様になってはる!ってとこです。
でもね、歴史なんてものは勝者が作りだすものですから、自分は今でもこの光海君は陥れられたのだと信じて疑わないんです、だって、政策的なことは悪くはないし、文禄の役の後の復興に尽力した功績は大きいと思うんですよね。
  ですから、歴史がなんて言おうが、自分の中の光海君はいつまでもあのドラマの中の人物なんです。

  そんな、このドラマ「ホ・ジュン」の中で、自分にいいイメージとして洗脳してしまった、その光海君を演じていた俳優さんを一昨日初めて知りました[あせあせ(飛び散る汗)]
  まさか、この人だったとは! 知った今でも信じられない状態です。
そして、このキム・スンスの生まれが1973年ですから、この当時27歳くらいだったっていうのも信じられません、韓国版を見ると1971年生まれ(?)、この当時29歳(?)、どっちにしてももっと若い人だと思ってました…だから、今は成長して何かのドラマに出てるのかな(?)という興味だったんです。
あれがキム・スンスだったなんて、自分としては今更ながらの大発見に近いものがあったんですよォ(笑)

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  この「ホ・ジュン ~宮廷医官への道」のドラマの中で、自分にとってもう一人印象に残る人物がいました。
現在で言う「ハンセン病」にもかかわらず、あの時代に完治してしまって、後にはホ・ジュンの手足となって働いたキム・サンファという人物です。
病気が治ってきれいな顔で登場した時には、「この時代にありえんのでは?」なんて思いましたが、ドラマの中で成長し変わっていく姿を見るのはちょっと楽しみでもありました。

  このサンファを演じていたのがヨ・ヒョンス という俳優さんで、最近はどうしてるのかな(?)とこちらも調べてみましたら、最近のドラマで見たばかりだったのに、またまたキム・スンス以上にびっくりさせられました。
「トンイ」の幼馴染みのケドラの成長した姿だったんですよね、1982年生まれですから「ホ・ジュン」の頃は18歳くらいです、こちらは反対に終盤に見せた18歳とは思えない大人の姿には、ちょっと信じられないものがありますねえ。

成長とともに変わっていく様子をご覧あれ!
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  今でも最終回の葬列のシーンを見ると泣けてくるこの「ホ・ジュン ~宮廷医官への道」というドラマ、いくつか韓国の時代劇を見てきていますが、このドラマが一番涙を流させたドラマだったんじゃないかな、と思います。
ちょっとこうした古いドラマについて調べてみるのも面白いものです、今回の自分のように
  「あの役の人がこの人だったなんて!」と、意外な発見ができるかもしれません、と言うか、俳優の名前をいちいち気にしてない自分だし、主役級でないと名前なんてわかりませんから、韓国ドラマならではの楽しみのひとつだったりするのかも[exclamation&question]

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